安倍晋三の行政と予算の私物化を隠蔽し、正当化する意図的な作為からの「桜を見る会」招待者名簿等の「管理簿」記載漏れ

2020-01-20 12:22:03 | Weblog
 当ブログの官房長官菅義偉の記者会見の模様は「buu」氏がツイッターで文字起こししていたから、それを拝借させて貰うことにした。

 官房長官菅義偉が2020年1月9日午前の記者会見で「桜を見る会」の招待者名簿等の「行政文書ファイル管理簿」への記載を行っていなかったことを明らかにしたと同日付、「NHK NEWS WEB」記事が伝えていた。

 記事は、〈公文書管理法では、1年以上保存する行政文書は原則としてファイルにまとめ、「行政文書ファイル管理簿」に記載して公表することが義務づけられています。〉と伝えている。記載漏れは2013年から2017年の5年分。

 この5年分の「桜を見る会」の招待者名簿と各省庁への招待者の推薦依頼文書を、当記事も触れているが、公文書管理のルールを定めた政府のガイドラインが文書廃棄時に行政文書ファイル名や廃棄日などを「廃棄簿」に記載することを義務づけているのに対して記録を残していなかったことを2019年12月29日付で既にマスコミが明らかにしている。二重の怠慢ということになる。

 「文部科学省」のサイトには「行政文書ファイル管理簿」について次のように記載している。文飾当方。
 〈行政文書ファイル管理簿は、公文書管理法及び情報公開法の円滑な運用に資するものとして、文部科学省・スポーツ庁・文化庁で保有する行政文書ファイルの名称、作成組織、作成時期などについて国民の皆様に対して案内を行うものです。〉

 他の省庁ではその省庁が「保有する行政文書ファイルの名称、作成組織、作成時期など」を「行政文書ファイル管理簿」に記載することが義務付けられていることになる。

 〈行政文書ファイル管理簿は、公文書管理法及び情報公開法の円滑な運用に資する〉目的の"国民の皆様に対する案内"だと位置づけている。当然、行政側からしたら軽々しく扱ってはならない重大性(事が重要であって軽視できないさま、またはその度合いを意味する語。「Weblio辞書」)を持つ文書管理ということになる。

 何しろ公文書を管理する側が軽々しく扱ったなら、国民の知る権利の一つとなっている情報公開法の円滑な運用に支障を来たすことになる。行政側はこの重大性を常に認識していなければならない。

 だが、内閣府お完了はこの種の文書管理が持つ重大性を認識しないままに「桜を見る会」の招待者名簿と各省庁への招待者の推薦依頼文書の「行政文書ファイル管理簿」への記載を怠っていた。このことは昨年2019年4月13日に開かれた「桜を見る会」の招待者名簿を内閣府では名簿の保存期間を2018年4月に「1年」から「1年未満」に変更していることを理由に1ヶ月も経たない5月9日に廃棄したことと関係があるのだろうか。

 いわば廃棄した手前、「行政文書ファイル管理簿」への記載もナシにする必要が生じたということはないだろうか。

 菅義偉の2020年1月10日午前の記者会見で記者が公文書の未記載は「しばしばあるのか」と質問すると、次のように答えている。

 菅義偉「先ず、内閣府や各省庁が行う、これ、内部監査、その中で、そのような事例が、把握されている事もあると、このように聞いています」

 つまり「行政文書ファイル管理簿」への記載漏れは内閣府だけではなく、他の省庁でも、「そのような事例が、把握されている」。と言うことは内閣府の5年分の「桜を見る会」の招待者名簿と各省庁への招待者の推薦依頼文書以外にも「行政文書ファイル管理簿」への記載漏れの文書は存在していることになる。

 菅義偉は他の省庁の同様の事例と内閣府でも「桜を見る会」に関係する文書以外にも記載漏れがあることを明らかにすることによって意図的未記載ではないこと、つまり偶発的手落ちだと示唆したことになる。

 但し偶発的手落ちからの記載漏れのその偶発性を意図的記載漏れにまで被せて、その意図性を隠蔽するのは誤魔化す個人、あるいは誤魔化す組織が頻繁に利用する手である。

 記者は記載漏れは「桜を見る会」関係文書以外にどのような文書があるのか聞くべきだった。菅義偉は上記発言の最後に「ま、詳細は内閣府の、公文書管理担当にお尋ねを頂きたい、このように思います」と言っているから、野党の内閣府に対するヒアリングの際に問い質すべきだろう。内閣府職員がほかにも記載漏れ文書を持ち出すようなら、文書管理の杜撰さが浮かび上がる。その杜撰さが少しでも不自然であるなら、意図的記載漏れの疑いが(このことは招待者名簿と招待者の推薦依頼文書の廃棄の意図的可能性に繋がる)浮上、追及の突破口とすることができるかもしれない。

 菅義偉は2020年1月14日午前の記者会見になって、それまでは「事務的な記載漏れ」としていた2013年から2017年までの5年間の「桜を見る会」招待者名簿と各省庁への招待者の推薦依頼文書の「行政文書ファイル管理簿」への未記載が「11年と12年は開催直前に桜を見る会が中止になり、管理簿に掲載すべきだった招待者名簿を掲載せずに廃棄した。その取り扱いが前例として13年以降も漫然と後任に引き継がれた」と説明したと2020年1月14日付「毎日新聞」記事が伝えている。

 菅義偉「11、12年も内閣府は各省から推薦名簿を集めて招待の準備をしていた。当時のルールでは(作成した)招待者名簿は管理簿に記載すべきだったが、中止になり、名簿も管理簿に掲載せずに廃棄していた」

 記事は、〈第2次安倍政権下で開催された13~17年の招待者名簿も「公文書管理違反の扱いが漫然と引き継がれていた」と、前政権での扱いを前例踏襲したものだったと語った。〉ことと、〈民主党政権時代の2011年は東日本大震災、2012年は北朝鮮のミサイル対応のために中止になった。〉と解説している。

 中止なら、「行政文書ファイル管理簿」への記載の必要性は失うはずだが、そのことを前例として未記載を踏襲したということはどういうことなのだろう。
 
 「buu」氏の文字起こしから2020年1月15日午前会見の遣り取りの要所要所を拾ってみる。

 記者の2011年と2012年の中止になって招待されなかったケースと2013年以降の決行して招待されたケースとでは性格が異なるにも関わらず、漫然と引き継いだという説明は不自然だがという質問に対して、菅義偉は「各省から推薦名簿を集めて、内閣府として、招待の準備をしていた場合はルール上は管理簿に掲載されるべきだが、事務的なミスで掲載しなかった」といった趣旨の答弁をしている。

 この発言は納得できないことはない。中止になったけれども、何人の推薦があり、その中で何人が招待される予定だったか、そして中止となったイキサツはのちの参考として文書に残して置かなければならないかもしれない。

 だが、記者の質問どおりに2011年と2012年の中止による「行政文書ファイル管理簿」への未記載を漫然と引き継いだ、あるいは事務的なミスだとすることは組織要員としての文書管理上の能力の問題となってきて、簡単には見過ごせない。雇用の問題にも関わってくる。

 記者が職員に違反の認識にあったのかないのかを問うと、菅義偉は「この2011年から2017年、この7年間の担当者に確認しましたから、ルールはあまり調べずに対応しておりですね、これ前例を踏襲する中で、違反の認識はなかったと言うことです」と答えている。

 「ルールはあまり調べなかった」、違反の認識もなく、ただただ「前例を踏襲」してきた。つまり頭から無考えのまま、自らに与えられた職務を遂行してきた。

 このこと自体が文書管理を職務として与えられている職員としては考えられない姿勢だが、考えられないのは当然で、調べる、調べないの前に頭に入れて置かなければならない公文書管理のルールだからである。

 さらに文書管理は一人の職員が1点の文書のみを管理するのではなく、一人でか、あるいは数人で協同してそれぞれに数点ずつに亘って管理する体制を取っているはずだから、それが一人の仕事だとしたら、1点の文書の未記載は他の文書の未記載となり、数人で協同の場合は、扱う全ての文書に亘って未記載か、記載かのいずれかに分かれることになる。

 と言うことは、一人で数点に亘って文書管理をする場合でも、数人で協同して数点に亘って文書管理する場合でも、管理した文書の全てに亘って未記載であったときにのみ、
文書管理のルールに対する無知によって全ての文書に亘って未記載が生じたとすることは受け入れることができるとしても、「前例を踏襲する」云々の問題ではなくなる。

 なぜなら、菅義偉が言っているように記載漏れの「事例が、把握されている」としても、記載されている文書が存在する以上、「桜を見る会」に関係する文書のみの未記載を以って前例踏襲というのは成り立たないからだ。逆に2011年と2012年の未記載の理由を中止と、その中止に対応した未記載となった諸般の事情から思慮し、2011年と2012年の未記載と厳しく区別して、2013年以降の文書管理に対処しなければならない。

 いわば文書管理の全体性から言って、一部の文書にのみ関係した未記載の前例踏襲は文書管理法に逸脱することになる。あるいは自分たちで文書管理法の一部を曲げたことになる。

 その自覚もなかったとしたら、文書管理上の能力の問題と雇用の問題を再び言わなければならない。一言で言うと、こういった職員を雇用していることは税金のムダ遣いである。

 事はこれ程にも重大であるが、菅義偉は職員の文書管理上の能力の問題と雇用の問題を一切無視して、平然としている。この平然とした無視は文書管理の重大性を認識していないことによって生じている。

 菅義偉「行政文書の管理簿と言うのは、極めて事務的なものであって、そして各年度の担当者がルールと言うものをきっちりと調べずに、前年において管理簿に掲載されないという、そうした前例を漫然と踏襲したと、そういうことであると言うことです」

 文書管理の重大性を無視して、「極めて事務的なもの」で片付けている。文書管理の重大性を前にして、「極めて事務的」であってはならないと言うことである。

 「公文書管理法」

第一条 この法律は、国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により、行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り、もって行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。
第四条 行政機関の職員は、第一条の目的の達成に資するため、当該行政機関における経緯も含めた意思決定に至る過程並びに当該行政機関の事務及び事業の実績を合理的に跡付け、又は検証することができるよう、処理に係る事案が軽微なものである場合を除き、次に掲げる事項その他の事項について、文書を作成しなければならない。

一 法令の制定又は改廃及びその経緯
二 前号に定めるもののほか、閣議、関係行政機関の長で構成される会議又は省議(これらに準ずるものを含む。)の決定又は了解及びその経緯
三 複数の行政機関による申合せ又は他の行政機関若しくは地方公共団体に対して示す基準の設定及びその経緯
四 個人又は法人の権利義務の得喪及びその経緯
五 職員の人事に関する事項
 (文飾当方)

 このようなルールに則って一つに纏めたものを「行政文書ファイル」としている。

 公文書管理法の第1条「目的」に書いてある文書管理の重大性と照らし合わせた場合、「ルールはあまり調べなかった」はあり得ない姿勢であり、違反の認識もなかった、「前例を踏襲」で片付ける無考えな官僚の姿は誰が素直に認めることができるだろうか。

 日本の官僚は優秀であるとの評判を得ている。事実でないことを事実と言いくるめるときだけが優秀ではあるまい。存在する文書を存在しないことにするときだけが優秀ではあるまい。

 だが、菅義偉は「ルールはあまり調べずに対応して、前例を踏襲する中で違反の認識はなかった」と優秀とされる日本の官僚像のメッキを懸命に剥がしている。菅義偉が描くメッキの剥げた官僚像は事実でないことを事実と言いくるめるときの優秀な官僚像と余りにもかけ離れていて、余りにも現実的ではない。存在する文書を存在しないことにするときの優秀な官僚像とも余りにもかけ離れていて、余りにも現実的ではない。

 菅義偉と内閣府官僚の「公文書管理法」の重大性を頭に置かない非現実的な姿勢と合わせて、菅義偉が優秀性とは正反対の信じ難い凡庸性を殊更に国民の前に描き出している、メッキを剥がした内閣府官僚像のその非現実性を実際の現実に近づけるためには、「桜を見る会」の招待者名簿等の「行政文書ファイル管理簿」への記載漏れは「桜を見る会」の招待名簿の意図的な廃棄に続く意図的な作為と見ないと整合性が取れない。

 菅義偉が言っていることを要約すると、内閣府官僚はバカだから、招待名簿を破棄し、「行政文書ファイル管理簿」へ記載漏れが生じたとしていることになる。

 だが、内閣府官僚はバカではない。至って優秀であるはずだ。当然、文書管理に関わる官義偉のこの意図的な作為は「桜を見る会」を利用した安倍晋三の行政の私物化・予算の私物化を隠蔽し、正当化する作用を持たせていなければ、終始一貫しない。

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