日本国力過大評価と米国力過小評価に基づいた杜撰な対米英戦争計画から見る安倍、高市等の靖国参拝(1) 

2024-12-08 08:55:48 | 政治

 国策に基づいた国民の過去の一定の行為を国家への功績と認めることは過去のその国家体制を肯定していることによって可能となる。その国家体制を否定していたなら、肯定は不可能となる。特にその国策が杜撰な計画に基づいた戦争によって受けた戦死ということなら、国家に対する功績者とは見ずに逆に国家による犠牲者と見ることになるだろう。

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 戦後の日本で戦前の戦争の性格や内容を考えずに戦死を殉難と位置づけて、その国策もそれを生み出した国家体制をも肯定する国民が多く存在する。しかし日本の陸軍省経理局内に設立された研究組織「陸軍省戦争経済研究班」(秋丸次朗陸軍主計中佐が責任者だったことから秋丸機関と呼称されていたという)が作成したアメリカ国力の調査報告書の内容は杜撰で、過小評価オンパレードとなっていて、杜撰な国力評価に基づいた対米英戦争計画が招いた日本約310万戦死、アメリカ約29万戦死、イギリス約14万戦死の圧倒的差だけではなく、日本約310万戦死のうちの約6割が戦闘死ではなく、圧倒的な戦力の差を見せつけられてジャングルに敗走し、食糧の補給を受けられずに命を絶つ餓死だというから、多くが犬死にに等しい戦死結果だった。

 断るまでもなく、「犬死に」と「殉難」とは意味が違う。「犬死に」は「無駄に死ぬこと」を言い、「殉難」は「国家のために一身を犠牲にすること」を言う。太平洋戦争の日本軍戦死者の本人や周囲は国のための犠牲と思っていても、実質的には犠牲といった雄々しく、尊い振舞いを許される状況下で死に向かったわけではない。米国力過小評価に基づいた戦前国家の杜撰な戦争計画であった上に仮定的な希望的観測を拠り所とした作戦の見通しと合理性を欠いた精神論を主体とした訓練で手に入れた、実戦には役立たない戦闘能力を力に米軍に遥かに劣る物量と軽視された兵站での惨めな戦いを強いられて、それでもほんの最初は勢いは良かったが、日米開戦1941年12月8日から半年後の1942年6月初旬のミッドウェー海戦と同年8月初旬のガダルカナル島攻防戦敗退で日本軍は制空海権をほぼ失い、1943年5月のアリューシャン列島アッツ島の戦いでは日本軍守備隊3000人弱のうち90%近くが戦死のほぼ全滅状態となると、大本営はその全滅を「玉砕」と発表、あくまでも雄々しく勇ましい戦いであったかのように見せかけたが、以降、なし崩し的に敗退の道を突き進むことになった。

 大体が勝つ見込みは陸海軍首脳と政府首脳の頭の中にのみ存在した期待上の計算であって、現実世界とは合致しない架空の計算とは気づかないままに戦争を始め、頭の中に存在させた計算とは異なる現実の展開に立ち止まることはせずに頭の中の計算に縋るのみで勝つ見込みのない戦争を兵士になお押し付けて、結果として犠牲を積み重ねていき、尊い命扱いはしていないのだから、兵士のその死を玉砕としたり、お国のために尊い命を捧げたとするのは実態とは掛け離れた不毛そのものの誤魔化しであり、非生産的で意味を成さない。

 にも関わらず、玉砕と名付けたり、「尊い命を捧げた」国への犠牲とするのは実際には不毛で非生産的な死を国家にとっては意義ある死と思わせることで、国家の価値そのものに有意義性を与える意図があるからだろう。日本軍兵士の勇猛果敢さを演出して、自他に対しての敗退のショックを和らげると同時に日本軍にまだまだ勢いのあるところを見せて国民に安心を与える精神的手当からだろうが、それで追いつかなくなると、大本営は虚偽発表で戦果を補い、日本軍の強さを宣伝することになるが、そういった見せかけとは反比例して兵士の死の実態は玉砕だ、尊い命を捧げるだとは遠く掛け離れた悲惨な姿へと変えていったことを歴史が教えている。

 だが、そのような惨めな戦いを強いられて不本意な戦死を遂げた兵士が戦前国家の杜撰な戦争計画を蚊帳の外に置いたまま靖国神社に祀られ、英霊だ、殉国の志だ、お国のために尊い命を捧げたと称賛の対象とされる。  

 その称賛によって結果として、それが日本の保守的な歴史修正主義者が主張するように例え自存自衛の戦争だったとしても、戦前国家の杜撰な戦争計画に基づいた勝ち目のない戦争そのものであった事実は変えようがないのだが、安倍晋三や高市早苗等、靖国神社参拝の常連政治家はその事実に気づくだけの人間的な共感は備えていない。

 日本軍は1941年(昭和16年)7月29日に現在のベトナム・ラオス・カンボジアを併せたフランス領インドシナに石油や鉱物などの資源、米などの食糧の確保を目的に無血進駐した。本国のフランスは1940年6月にナチスドイツ軍がパリに到達し、6月22日にドイツと休戦協定を締結、国土の北部半分をドイツが占領、南半分はドイツ傀儡政権が誕生し、本国からの支援は望めない状況下にあったことが可能とした無血進駐であった。

 アメリカはこの日本軍の軍事行動に対抗して在米日本資産の凍結、石油の全面禁輸という経済制裁を課した。軍備・編成、国防政策担当の海軍軍務局長の岡敬純(たかずみ)少将が「しまった。そこまでやるとは思わなかった。石油をとめられては戦争あるのみだ」と言ったとの記録が残っていると言う。

 要するに日本軍全体が最悪の事態を想定してそのことに備える危機管理に関わる戦略を機能させることができずにいたことを証明することになる。この証明は、当然、長期的・全体的展望に立った目的行為の準備・計画・運用の方法論としての総合的な戦略の構築にも影響を与えて、どこかに隙や弛み、手抜かりを生じせしめることになる。危機管理意識を欠いた組織に満足のいく総合的な戦略など描くことは不可能だからだ。

 アメリカから石油禁輸を受けた日本は石油、その他の資源を求めて南方の領土掌握を目指すことになる。蘭印(オランダ領東インド―現在のインドネシアのほぼ全域)の占領までを簡単な時系列で見てみる。

1941年(昭和16年)9月6日の第6回御前会議。
 帝国は自存自衛を全うするために対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整すことを決定。
 1941年11月5日の第7回御前会議を挟んで――
1941年12月1日 第8回御前会議
 対米英蘭開戦決定。
1941年(昭和16年)12月8日真珠湾攻撃、対米開戦。
 日米開戦によって、日独伊三国同盟の規定に従い、ドイツとイタリアはアメリカに宣戦布告。  
 アメリカは太西洋戦線に自動的に参戦。
1942年(昭和17年)1月10日日本南方作戦決定。
1942年(昭和17年)1月11日に蘭印(オランダ領東インド=現在のインドネシア)に侵攻。約2
 ヶ月後の3月9日に占領。

 日本はアメリカが太西洋戦線に自動参戦することで、太平洋地域の米軍戦力の分散を想定、自らを優位に立てる戦略に基づいた作戦を組んだ。その戦略どおりに作戦が進んだかどうか見てみる。

 《日本軍政下の南方石油―スマトラを事例として》(金光男:茨城大学人文学部)

 1942年占領の初年度には占領インドネシア現地での日本企業経営の石油生産量は日本とオランダ戦争前のオランダ企業経営の約半分量を回復、2年目にはほぼ開戦前の生産水準に達した。1943 (昭和18)年の原油年産量は約400万キロリットルまで回復。これは当時日本国内の総需要量の殆どを賄うほどの膨大な量であった。要するにアメリカの禁輸措置によって受ける日本のダメージをほぼゼロに戻した。

 石油生産量の回復と共に日本内地への輸送を開始。占領1942年度から1943年にかけて内地還送量が順調に増加したものの、1944年に入ると急落し、1945年(昭和20年)には皆無となる。

 理由は南方での軍•民の消費量の増加からではなく、連合軍による製油所爆撃とタンカー撃沈による消失からだという。要するにアメリカの対独参戦によって太平洋戦域での米軍の軍事力が分散されると予想していたが、軍用艦と軍用機の生産能力に日米間に圧倒的な差があり、軍事力の分散を吸収して、なお余りある軍事的優位を打ち立てることができたからだという。

 要するに日本政府と軍部は米国の軍事物資の生産能力と兵員確保能力を見誤った。当然、アメリカの対独参戦を受けたその兵力分散を想定して打ち立てた戦争計画そのものが最初から欠陥を抱えていたことになり、その欠陥が戦略そのものに影響、無惨な結果を招いたことになる。

 鉄屑の供出は1941年(昭和16年)12月8日の対米開戦よりも3ヶ月も前の1941年(昭和16年)9月1日から実施の「金属類回収令」によって始まり、鉄屑だけに収まらずに現実に使用中の金属製品までが供出の対象となっていったという自国の軍事物資の貧困に追い打ちをかける相手能力の過小評価という問題点を抱えていた。

 日本軍の1940年(昭和15年)9月23日の北部仏印進駐の制裁措置としてアメリカが翌月10月16日に日本への屑鉄輸出を全面禁止した結果を受けての屑鉄の供出だが、このように資源貧国日本と比較してアメリカは対独戦も引き受けることができ、対日戦も引き受けることができる資源大国であり、経済大国であったが、杜撰な戦争計画によって勝算を見込むことになり、その見込み違いによって多くの兵士に犠牲を強いた。

 想定そのものを間違えた戦争で受けた兵士の死は 玉砕とかお国のために尊い命を捧げた、天皇のために尊い命を犠牲にした、あるいは国策に殉じたとは決して形容できない。杜撰で愚かな戦争計画のために尊い命を犬死にさせられたと形容すべきだろう。

 当然、靖国神社を参拝して、その死を、いわばよくぞ戦ったと讃える行為は戦争の実態から目を背け、あるいは戦争の実態を免罪し、逆にその戦争を止むを得ないことだったと正当性を与えて国家を免罪する姿勢と言うほかない。

 杜撰な戦争計画であったことをネットで探した資料を使って証明していく。

 「陸軍秋丸機関による経済研究の結論」(牧野邦昭/摂南大学)に、〈1940年冬、参謀本部は陸軍省整備局戦備課に1941年春季の対英米開戦を想定して物的国力の検討を要求した。これに対し戦備課長の岡田菊三郎大佐は1941年1月18日に「短期戦(2年以内)であって対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は概ね可能である。但しその後の帝国国力は弾発力を欠き、対米英長期戦遂行に大なる危険を伴うに至るであろう。」と回答し、3月25日には「物的国力は開戦後第一年に80-75%に低下し、第二年はそれよりさらに低下(70-65%)する、船舶消耗が造船で補われるとしても、南方の経済処理には多大の不安が残る」と判断していた。〉とある。

 要するに1940年冬に「短期戦(2年以内)」+「対ソ戦回避」を条件に対米英戦勝利可能説を打ち立てていた。当然、対米英戦争計画はこの可能説に基づいて組み立てられることになったはずだ。

 だが、現実の対米英戦は「短期戦(2年以内)」を机上の空論で終わらせた。対ソ戦回避については、ソ連が日ソ中立条約(1941年4月25日発効、1946年4月24日まで5年間有効)を一方的に破棄して対日参戦したのは対米英戦開始1941年12月8日から3年8ヶ月後、広島原爆投下2日後の1945(昭和20)年8月8日で、最後の最後の場面であるから、形勢逆転のトドメの一撃になったというわけではないだろうが、約1ヶ月という短い期間で満洲国や朝鮮北部の制圧を受けたのは日本軍の主力を南方戦線の守りに回していたからだという。にも関わらず米英の戦力に太刀打ちできなかったのはアメリカの国力を過小評価したからで、過小評価は往々にして自己過大評価の反動として現れる。

 多分、日本の神国思想に基づいた日本民族優越意識が合理的認識能力の目を曇らせることになった可能性は疑えない。だが、天皇の大本の子孫を神として、昭和天皇を1937年(昭和12年)の「国体の本義」で現人神と宣伝するようになり、軍部や政府の天皇に対する実際の扱いと神国思想から発した日本民族優越意識とは矛盾することなるのだが、軍部にしても、政府にしても矛盾なく受け入れていて、日本民族優越意識を自分たちの精神性としていた。

 この軍部、政府の天皇に対する実際の扱いはまたあとで述べることにする。

 ソ連は要するに形勢を見極めた上で勝ち馬に乗ったということなのだろう。日本はソ連参戦で北方四島まで占領されることになり、泣きっ面にハチのトドメの一撃を受けることになった。

 陸軍省戦争経済研究班が行った対米英国力調査がどのように杜撰な内容を取ることになったのか、その杜撰さが多くの兵士を玉砕とか殉死といった勇壮果敢さは微塵もない犬死に同然の無惨な死に向かわせ、悲惨な敗戦という現実を与えることになったのだが、同じ牧野邦昭摂南大学教授の著作(現在慶應義塾大学経済学教授)、『英米合作経済抗戦力調査』(陸軍秋丸機関報告書)から窺ってみる。和数字は算用数字に変えた。

 〈アメリカの経済抗戦力については「第4章 第8節 結論」で次のように述べられている(70ページ)。

 以上の検討よりして我々は米国につきその経済抗戦力の大いさ(ママ)を次の如く判決することを得る。

1、米国は動員兵力250万、戦費200億弗の規模の戦争遂行に充分堪えることが出来る。しかもそれがためには、準軍需産業の転換並びに動員可能の労力1千万中600万人をもつて遊休設備を運転することによつて充分である。

2、米国はその潜在力を十分に発揮し得る時期に於いては、軍需資材128億弗の供給余力を有するに至る。併し之がためには設備の新設拡張を要するから、1年乃至1年半の期間を前提とする。〉―― 

 「1」の想定の妥当性を次の記事から見てみる。

 「レファレンス協同データベース」(近畿大学中央図書館 (3310037) 管理番号 20140418-1)

 〈アメリカ軍が第2次大戦で投入した戦力を総括する統計数値として、1,635万人もの戦時動員数や108万人の死傷者数と6,640億㌦の総戦費などをあげて、アメリカが闘った他の戦争と比較総括した資料が見つかりますが、WWⅡ(「World WarⅡ」(第二次世界大戦)の略)でのヨーロッパ戦線と太平洋戦線ごとに分けた戦力数や、各兵器ごとの総量については見つかりませんでした。〉――

 アメリカ軍が太平洋戦線と大西洋戦線の第2次大戦で投入した1,635万人の戦時動員数と6,640億㌦の総戦費を半分と見ても、太平洋での戦時動員数820万人、戦費3320億ドルとなり、4分の1と見ても410万人、1660億ドルであって、秋丸機関の想定、〈米国は動員兵力250万、戦費200億弗の規模の戦争遂行に充分堪えることが出来る。〉は国力、戦力共に過小評価していたことになるだけだけではなく、もしこれにイギリスが太平洋戦線に向けることのできる戦時動員数と戦費を加えたなら、話にならないくらいの過小評価となる。

 このことは戦時動員数と戦費が戦争遂行上の重要な要素を占める点ということだけではなく、調査・報告がアメリカの諸々の国力から導き出しているはずの関係から、報告書の全体的傾向を示す過小評価の可能性は否定できない。

 自分よりも能力の高い対象と自身の能力を比較しようとすると、相手の能力を自分の能力に近づけたくなる心理が働く傾向が往々にして生じる。

 このような心理が働いたことなのかどうかは分からないが、いずれにして過小評価で成り立たせた勝敗決着の想定であり、その想定に基づいて打ち立てた戦争計画によって多くの兵士を死に向かわせ、靖国神社に祀り、「お国のために尊い命を捧げた」、「国策に殉じた」としていることになるが、他の能力に対する過小評価は自己の能力への過大評価が生み出す心理現象であって、自らの国力を過信した戦前日本国家の過ちに対する指摘、あるいは思いは安倍晋三や高市早苗、その他の靖国参拝からは見えてこない。

 「2」の米国の「軍需資材128億弗の供給余力を有する」時期を「1年乃至1年半の期間を前提とする」と見立てた点についての妥当性は、既に触れているように日米開戦1941年12月8日から半年後の1942年6月初旬のミッドウェー海戦と同年8月初旬のガダルカナル島攻防戦の敗退で日本軍は制空海権を失い、劣勢に立たされ、その劣勢を一度も跳ね返すことなく敗戦に追い込まれていった現実は米国の軍需資材供給余力の数値に関係せずに「1年乃至1年半」を待たずに「潜在力」を顕在化させ、見せつけたのだから、この点からも報告書はアメリカの国力に対する過小評価で成り立たせていたことになり、過小評価からは満足な戦争計画は立てることはできないし、結果としての各戦術も戦略も欠陥を抱えることになる。その答が杜撰な戦争計画ということになったはずだ。

 次に「4」を見てみる。

 〈4、英国船舶月平均50万噸以上の撃沈は、米国の対英援助を無効ならしめるに充分である。蓋し英米合作の造船能力は1943年に於いて年600万噸を多く超えることはないと考へられるからである。〉――

 1941年12月に対米英戦争開始から1943年の2年間を限度とした英米の造船能力は「英国船舶月平均50万噸以上の撃沈」×12ヶ月=600万噸撃沈に対して「年600万噸を多く超えることはない」、いわば英海軍のトン数の原状回復が精々で、その状況での米英海軍には太刀打ちできると計算していた。

 そして米英軍のその他の戦争遂行に必要な能力の準備についても、「1年乃至1年半の期間」と見ていて、「短期戦(2年以内)」なら勝利は見込めると計算したのだろう。

 この計算の妥当性を、『比較戦争経済史―潜水艦と造船の戦いを中心に―』(荒川憲一著)から見てみる。
  
 〈本テーマに関連した先行研究の権威であり、当時の日本の戦争経済の解剖書といわれる「米国戦略爆撃調査団報告書」では、戦時の日本の造船が米国に比較して相対的に停滞した原因を、建造速度に焦点をあて、次のように結論している。日本の造船の建造速度が遅い原因は「日本労働者の平均技量の低い水準による基本的な制約、造船所が使用した窮屈な地域、能力の大きいクレーンと装置の欠如、日本の工業技術と経営が想像力に欠けたこと」にあるとし「労働力の不足には悩まされなかった」としている。〉――

 つまり日本の造船分野は十分な労働力に恵まれていたが、労働者個々の技量の低さや日本の工業技術の低水準、そして活用余地が制約された土地条件や資本設備の貧しさ、全体としての日本の工業技術と経営に対する想像力不足等の影響が日本の造船の建造速度の遅い要因と見ていた。

 この調査団報告書は戦後に行われたものだが、アメリカも日本の国力を調査していたはずで、どう戦うかについてはより正確な敵国力調査が必要となり、調査内容の正確さが勝負のポイントとなる。生産性の低さと技術革新の遅れは日本の造船業に限ったことではなく、日本の工業のほぼ全般に関係している問題点となり、日米全体の国力の差に関係していくことになる。

 では、『日本海軍の防備体制-対潜戦、機雷戦の観点から-』(防衛研究所)の内容に基づいて日本の造船能力を潜水艦建造数の日米比較の観点から類推してみることにする。

 『表3 日米海軍の潜水艦の総数と損失数の割合』

       開戦時保有潜水艦 建造した潜水艦の数  総数   損失数(割合)
 日本海軍     62        117       179   127  (71%)
 米海軍      114        203       317    52  (16%)  

 開戦時保有潜水艦数も新規建造潜水艦数もアメリカが全てに上回っていて、日本の造船能力の米国と比較したその下位性に向ける目を秋丸機関は持たなかっただけではなく、下位性の要因としての造船部門の技術力や生産性の両国差に対しても向ける目を持たなかったことを示す。

 そして日本の造船部門の技術力や生産性の低さと比較した米国の技術力や生産性の高さは既に触れたように造船に限定されるわけではなく、航空兵器の製造部門とも相互影響していることであって、日本の潜水艦の損失割合の高さは米側の航空兵器の生産能力の高さとその結果としての生産機数に海上兵器の数を併せた攻撃力の高さの証明ともなるが、こういった関連性に向ける目も持ち合わせていなかったことになる。

 さらに技術力や生産性の程度は民生品の製造部門にも相互関連していく要素であって、兵士の食糧や軍服等、日常使用の品々の供給にも影響を与えることになり、最終的には日米の兵士の士気の問題にも関係していき、それが主体的姿勢に基づくのか、受動的姿勢に基づくのかによってそれぞれの戦闘能力にも違いが生じる。

 日本軍の兵士の士気は各戦闘がアメリカ戦力の杜撰な調査をベースとした杜撰な戦争計画に則っている以上、主体性の発揮は期待しにくく、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」や「お国のためだ」、「天皇陛下のためだ」いった上からの強制性が一方で働いていたことを受けた精神論に則った機械的な士気の発揮となりがちで、このことも影響した各戦闘に於ける形勢不利であり、杜撰な戦争計画と相互作用し合った結果の理不尽な死の数々ということであろう。

 事実、太平洋戦争での日本軍兵士の死の多くがそういった種類の死であったことは記録にあるとおりで、当然、大方のところで靖国参拝で称えているような死の形は取っていない。戦前国家を肯定している政治家、その他が肯定の先に頭の中で描いている雄々しく、美しい死の形に過ぎないことになる。

 秋丸機関報告書が「英米間の船腹量が弱点」であるとしている点について、『英米合作経済抗戦力調査』(陸軍秋丸機関報告書)の著書の牧野邦昭教授は、戦前東京帝大助教授だったが、1938年の人民戦線事件(反ファシズム・反戦争の民主主義勢力結集運動)で検挙され、退官、戦後東京帝大教授に復職の経済学者脇村義太郎の戦前の日本の造船力に関する証言を取り上げている。

 但し脇村義太郎がどういうイキサツで内情を知り得た証言なのかの解説はない。

 〈最晩年の1995年に日本学士院で行った講演で、「問題は、(アメリカが)生産された軍需品を東洋戦線、ヨーロッパ戦線へ送れるかどうかということに関わるわけですが、これは結局、船の生産がどのくらい出来るかという一点にかかるということになります。その船の生産力がどうかということについて(秋丸機関の)『報告書』のここに書いてあるのは、大体、上述の市原顧問(名前は章則、戦後日本郵船社長)の意見であったと思われますが、市原という人は残念ながら、欧州大戦の記録しか知らなかった人なのです。当時は第一次大戦の記録しかなくて、その後アメリカがどういう状態になっているかということは全然知らなかった。それを有沢さん(東京帝大の助教授時代に人民戦線事件で休職処分を受けていたが、経済学の知識を見込まれてのことだろう、秋丸機関から招聘を受けて、調査員に加わる)と二人で見ていたわけで、お手許に配ってありますように、第一次世界大戦時にアメリカがどのくらい船を造ったかということにもとづいて、第二次大戦時にどのくらい船を造れるかということを書いておりますが、実は造船のやり方について第一次大戦と第二次大戦との間に大きな変化があったということを考えない予想だったのです」〉――

 現実問題としてもアメリカの造船能力を見誤っていたのだから、この見誤りは戦闘機や爆撃機の航空機生産能力も過小評価していることに繋がり、アメリカ国力調査の杜撰さを改めて示すことになる。この杜撰な調査に基づいて想定と実際の戦力の矛盾を抱えた対米英戦争計画を練り上げて、米英に宣戦布告、そのような戦争を戦わされて、想定していなかった戦力の違いで無惨な死に追いやられた日本軍兵士こそいい面の皮だが、その実態は靖国参拝者の目には映し出されない架空のものとなっている。あくまでも国に殉じた、国のために命を捧げたと戦死者を通して戦前日本国家に正当性を付与していることになる。付与していなければ、戦死させられたと解釈することになるだろう。

 著作者の牧野邦昭教授は秋丸機関報告書が杜撰な戦争計画であることを次のような言葉で総括している。

 〈さらに、アメリカを速かに対独戦へ追い込み、その経済力を消耗させて「軍備強化ノ余裕ヲ与エザル」ようにすると同時に、自由主義体制の脆弱性に乗じて「内部的攪乱ヲ企図シテ生産力ノ低下及反戦機運ノ醸成」を目指し、合わせてイギリス・ソ連・南米諸国との離間に努めることを提言している。

 とはいえ、この「判決」で提案されているアメリカに対する戦略は「どのようにそれをするのか」という具体案が全く無いので、率直に言えばただの「作文」といえる。〉――

 この「ただの『作文』」が日本軍人・軍属約230万人、民間日本人約80万人、合計約310万人の死だけではなく、アジアの国々からも膨大な死を招いているにも関わらず、安倍晋三や高市早苗の手にかかると、日本人戦死者に限って、「お国のために尊い命を捧げた」となる。

 高市早苗は経済安保担当大臣当時の2023年4月21日に靖国神社春の例大祭参拝。記者団の問いかけに答えている。

 高市早苗「国策に殉じられた方々の御霊に尊崇の念を持って哀悼の誠を捧げてまいりました。感謝の気持ちをお伝えして、そして、ご遺族の皆様のご健康をお祈りしてまいりました」

 戦死者を「国策に殉じられた方々」とすることで、国策に対しても、戦死、あるいは戦死者に対しても肯定的な意味づけを行っていることになる。

 当然、アメリカの国力を過小評価した杜撰な戦争計画で対米戦争を開始し、多くの兵士を犬死に同然の無惨な死に追いやった歴史的実態は高市早苗の脳裡には影さえも射してはいないことになる。

 国家と国民の関係が戦前型を維持しているから、国家を優先的に鎮座させ、国民を国家の下に鎮座さる国家主体の思考から抜けきれないからに違いない。こういった人物が国民のためと称して国政に携わっている。

 今年2024年10月17日秋の例大祭の靖国参拝では記者団に次のように発言している。

 高市早苗「きょうはひとりの日本人として参拝させていただいた」

 「ひとりの日本人として」とは戦前の戦死者を「国のために戦い、尊い命を犠牲にした」、「心ならずも戦場に散った方々に感謝と敬意を捧げる」等々、戦後の日本人の立場から祀るについての正当性を置いている文脈となるが、祀る事実を作り出した要因は戦前の日本国家とその戦争である以上、この両者に対しても正当性を置いていることは断るまでもない。

 意味のない戦争で意味のない戦死だと価値づけていたなら、「ひとりの日本人として」などと
日本人であることを前面に出して、正当性を持たせた当然の義務とする発想は出てこない。戦前の日本国家を構成した政府や軍部所属の戦前日本人が日本の国力の過大評価を精神的ベースとしたアメリカ国力の過小評価が杜撰な対米戦争計画を招き、その計画のもとの戦争が多くの兵士を犬死に同然の無惨な死に追いやった歴史的実態はその靖国参拝の戦死者追悼の姿からは影さえも見せないのは、戦前国家否定を排除した戦前国家肯定を歴史認識としているからにほかならない。

 要するに靖国参拝に於ける戦死者追悼は戦前日本国家肯定と同時進行で行われていることになる。

 よく知られた事実だが、総理大臣直轄総力戦研究所が行った日米戦想定の机上演習報告でも対米戦敗北を予想していた。「Wikipedia」の項目、「総力戦研究所」を参考に書き起こしてみる。

 総力戦研究所とは陸軍省経理局に置かれていた「戦争経済研究班」、通称「秋丸機関」の機能を引き継いだ機関だと解説している。研究生は各官庁・陸海軍・民間などから選抜された若手エリートたちで、1941年4月1日入所第一期研究生官僚27名(文官22名・武官5名)、民間人8名の総勢35名が1941年7月から8月にかけて、〈研究所側から出される想定情況と課題に応じて軍事・外交・経済の各局面での具体的な事項(兵器増産の見通しや食糧・燃料の自給度や運送経路、同盟国との連携など)について各種データを基に分析し、日米戦争の展開を研究予測した。

 その結果は、「開戦後、緒戦の勝利は見込まれるが、その後の推移は長期戦必至であり、その負担に青国(日本)の国力は耐えられない。戦争終末期にはソ連の参戦もあり、敗北は避けられない。ゆえに戦争は不可能」という「日本必敗」の結論を導き出した。これは、現実の日米戦争における戦局推移とほぼ合致するものであった(原子爆弾の登場は想定外だった)。〉と、対米戦敗戦を予測していた。

 この机上演習の研究結果と講評は1941年8月27・28日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』において時の首相近衛文麿や陸相東條英機以下、政府・統帥部関係者の前で報告されたという。

 この予測を覆したのは1941年(昭和16年)10月18日の首相就任3カ月前の陸軍大臣東條英機であった。表記は現代式に改めて、次のように記している。

 東條英機「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦争というものは、君達が考えているような物では無いのであります。日露戦争で、わが大日本帝国は勝てるとは思わなかった。然し勝ったのであります。あの当時も列強による三国干渉で、やむにやまれず帝国は立ち上がったのでありまして、勝てる戦争だからと思ってやったのではなかった。戦というものは、計画通りにいかない。意外裡な事が勝利に繋がっていく。したがって、諸君の考えている事は机上の空論とまでは言わないとしても、あくまでも、その意外裡の要素というものをば、考慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経緯を、諸君は軽はずみに口外してはならぬということであります」

 東條英機は1904年(明治37年)2月8日から同年9月5日までの日露戦争の時代から1940年代後半のその時代に至る兵器の発達と各性能の向上を無視して(日露戦争当時は戦車も戦闘機も存在せず、潜水艦は日露共に実用の段階に至っていなかったという)、40年近くも昔の日露戦争を参考に、"意外裡な事"(意外の裡〈うち〉に入る事=偶然性主体の計算外の要素)に期待、合理性に基づいた戦争の進め方とは異なる気持ちの持ち方が大事だとする精神論に近い訓戒を行った。

 「陸軍秋丸機関報告書」解説の著書牧野邦昭(現在慶應義塾大学経済学)教授が指摘した、秋丸機関の市原章則顧問(戦後日本郵船社長)が第2次対戦前のアメリカの造船能力を第一次大戦当時の造船能力に基づいて予測した時代錯誤な見立てと同じ轍を東條英機は踏んだ。

 だが、東條英機が総力戦研究所の日米戦想定机上演習報告が出した答、"長期戦不可避→長期戦遂行不可能→敗北必至"を避けて、陸軍秋丸機関報告書が出した答、「短期戦(2年以内)」+「対ソ戦回避」を条件に勝機を見込んだ対米国力調査に賭けた経緯は分からないが、後者にこそ"意外裡な事"の偶発を期待したのか、両報告を比較して、より確実な勝機を計算してのことか、色々と推測することはできる。

 だが、陸軍秋丸機関報告書が日本国力の過大評価への傾斜を内心に抱えたアメリカ国力の過小評価で成り立たせた杜撰な調査を内容としていたことは戦争の経緯から見て、軍部・政府の首脳の誰もが理解していなかったと見ることができる。

 やはり神国思想を根にした日本民族優越意識が合理的認識能力の目を曇らせることになった自己過大評価とその地平から見ることになった他者過小評価が災いした国家の戦争暴走といったところなのかもしれない。

 《日本国力過大評価と米国力過小評価に基づいた杜撰な対米英戦争計画から見る安倍、高市等の靖国参拝(2)》に続く
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日本国力過大評価と米国力過小評価に基づいた杜撰な対米英戦争計画から見る安倍、高市等の靖国参拝(2)

2024-12-08 08:45:54 | 政治
Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 では、日本の歴代天皇は現人神としてこの世に現れた神の子孫であり、日本の神としての絶対的な存在性を纏うことができていたのだろうか。ネットから見つけ出した情報を頼りにこれまでにブログで書いてきたことと混ぜ合わせて自分なりに取り上げてみる。

 先ず大日本帝国憲法「第1章 天皇」の主要部分を抜き出してみる。

第1條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第11條 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第13條 天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス

 帝国憲法が天皇に規定しているこれらの権限のみを見た場合、天皇は絶対的権力を有する存在と看做すことができ、天皇独裁制を採用した国家体制と言える。何しろ神聖にして侵してはならないと絶対的地位を与えられているのである。

 この神聖にして侵してはならないという絶対的地位は国民のみからではなく、政府の誰からも、帝国陸海軍の誰からも、保障を得ていなければ、天皇独裁制とは言えないし、大日本帝国憲法第1章天皇の各規定は単なる作文、見せかけとなる。

 天皇のこの絶対的権力は他の条項をも保証している。

 第4章 國務大臣及樞密顧問
 第55條 國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
     凡テ法律勅令其ノ他國務ニ關ル詔勅ハ國務大臣ノ副署ヲ要ス
 第56條 樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ國務ヲ審議ス

 輔弼(ほひつ):明治憲法下で、国務大臣・宮内大臣・内大臣が天皇の権能行使に対して助言す 
         ること。
 諮詢(しじゅん):参考として他の機関などに意見を問い求めること

 国務大臣は天皇に助言し、その助言に対して責任を負う。国務大臣は天皇の意見の求めに応じて国務を行う。このことも助言行為に相当し、責任を負う。天皇は一切責任を負わない。

 この天皇の無答責は大日本帝国憲法「第1章 天皇」第3條の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」に対応させた措置とされている。

 但し天皇の側に主体性を置いた総理大臣や現役武官制を採用していた陸海軍大臣等の上級軍人 を含めた国務大臣側からの助言なのか、総理大臣や上級軍人を含めた国務大臣側に主体性を置いた天皇に対する助言なのかによって天皇無答責はイコール総理大臣や上級軍人を含めた国務大臣側の無答責となりうるし、そうなった場合は天皇の絶対性は形式的な性格を帯びることになり、天皇の無答責は総理大臣や上級軍人を含めた国務大臣側の有答責の隠れ蓑となるし、隠れ蓑とすることも可能となる。

 もし隠れ蓑として利用していたのなら、天皇の絶対的存在性、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の帝国憲法の規定を総理大臣や上級軍人を含めた国務大臣側自身が侵し無視していたことになる。

 どのような経緯を取ったかを見ていくことにする。

 既に触れているが、1941年(昭和16年)9月6日の第6回御前会議で帝国は自存自衛を全うするために対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整すことを決定した。その会議の内情を以下の記事とNHKの記事を参考に見ていくことにする。

 
 『よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ』
(日々のクオリア 砂子書房一首鑑賞 一ノ関忠人/投稿日:2014年9月6日)

 この記事は当時陸軍軍務科高級課員だった石井秋穂(あきほ)大佐が事務方として会議に参加していて、その様子を書き記している「石井秋穂大佐回顧録」を参考に解説している。

 〈「最後に天皇陛下は御親(みずか)ら御発言遊ばされ、先ず『枢相〔原嘉道枢密院議長〕の質問に対して統帥部が答えないのは甚だ遺憾である』と仰せられポケットから紙を御出しになり『四方の海皆はらからと思う世に/など波風の立ちさわぐらむ』との明治天皇の御製を二度朗読あらせられ『自分は常に明治天皇の平和愛好の精神を具現したいと思っておる』とお述べ遊ばされた。」〉――

 第6回御前会議で原嘉道枢密院議長が統帥部に発した質問がどのような内容のものか、ネットを調べたが分からなかったから、MicrosoftのAI、Copilot(コパイロット)に尋ねたところ、〈
第6回御前会議で、原嘉道枢密院議長が統帥部に発した質問の内容は、具体的には「統帥部の戦争計画についてどのようなものか」というものでした。この質問は、戦争計画の詳細や具体的な戦略についての情報を求めるものでした。〉

 ところが、統帥に関して天皇を直接補佐する役目にある陸軍参謀総長なのか、海軍軍令部長なのか、統帥部は答えなかった。和歌の内容以前の問題として、大日本帝国憲法「第1章 天皇」第1条で日本帝国の統治者と位置づけられ、第3条で神聖で侵してはならない存在とされ、第11条で陸海軍の最高統帥者である大元帥とされ、第13条で宣戦布告と戦争終結の発令の任を負う帝国国家に於ける最高権威者である天皇が臨席する場で国家の命運を左右するかもしれない戦争計画を枢密院議長から尋ねられて、統帥部は答えなかった。

 ここで戦争の前準備作業の経緯を振り返ってみる。

 ・1941年1月18日、秋丸機関が行った、短期戦(2年以内)且つ対ソ戦回避の場合は対南方武力行使は概ね可能、但し対米英長期戦遂行は危険大を内容とする「対米英国力調査」の報告が為される。
 ・1941年8月27・28日両日、総理大臣直轄総力戦研究所の日米戦想定の机上演習報告「日本必敗」が告げられる。
 ・1941年(昭和16年)9月6日に第6回御前会議開催。帝国は自存自衛を全うするために対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整することを決定。

 多分、自存自衛の旗印をいくら勇ましく掲げようが、対米英開戦に持っていった場合、十分に勝機はありますと簡単には答えることができなかったから、無視せざるを得なかったといったところなのかもしれない。

 だが、天皇自身が「枢相〔原嘉道枢密院議長〕の質問に対して統帥部が答えないのは甚だ遺憾である」と注意し、件の和歌を読んだということは、既に報告が為されていた秋丸機関の「対米英国力調査」も、総力戦研究所の日米戦想定の机上演習も、統帥部は天皇には知らせていなかった疑いが出てくる。天皇に知らせていたなら、例えば、「我が陸海軍は対米英開戦したならば、必勝に向けた作戦を鋭意構築中です」といったことを原嘉道枢密院議長に伝えることもできたはずだし、あるいは昭和天皇自身、開戦の確率を承知することができていて、反戦和歌を詠む必要も生じなかったかもしれないからである。

 なぜ天皇自身、陸海軍の最高統帥者であり、大元帥という地位にある役目上、「戦争する場合の勝機ありやなしや」、「戦争を避ける道はありやなしや」と直接統帥部に尋ねなかったのだろう。尋ねずに明治天皇が作った和歌を用いて、世界のみんなは兄弟姉妹みたいなものなのになぜ戦争の波風を立てるのかと遠回しな表現で戦争回避意思を伝えただけだった。

 その程度のことしかできなかったということは大日本帝国憲法「第1章 天皇」の各条項に規定された天皇自身の巨大な権限を、本人の側からすると、ウソにする態度となり、統帥部側からすると、裏切る態度となる。

 この両面性は大日本帝国憲法「第1章 天皇」の各条項が実体を備えていなかったことを意味することになり、天皇という存在は、備えていると看做されていた権限も権威も、何もかもを含めて、飾りに過ぎなかったことの証明としかならない。

 当然、帝国憲法「第4章 国務大臣及枢密顧問」の「第55条 国務各大臣は天皇を輔弼し其の責に任ず」の「輔弼」(天皇の権能行使に対して助言すること)にしても、どちらに主体性を置いた助言なのか、前のところで問い掛けたが、答は天皇の側に主体性を置いた国務大臣側からの助言ではなく、国務大臣側に主体性を置いた彼らからの助言ということであって、そうである以上、助言という形を装って、きっとこの上なく丁寧な言葉遣いを用いた、最初は遠回しな、最終的には自分たちの意思・要求を飲ませる性格の"助言"といった可能性が強い。

 この第6回御前会議での天皇の発言は異例だということを次のネット記事で知った。テレビ放送の要約案内である。

 「運命の御前会議 昭和天皇 戦争回避への苦闘」(NHK/放送日2019年07月31日)
  
 〈番組より、1941年9月6日に開かれた御前会議。それまで、御前会議で天皇は発言することはないとされていたが、この日、ある行動をとる。昭和天皇の異例の意思表示と日本のリーダーたちが、それをどのようにとらえたのかの部分。

 番組内容 
 日米開戦の危機迫る1941年(昭和16年)9月6日、昭和天皇は、政府と軍部の指導者たちが出席した御前会議で驚きの行動に出た。天皇は発言しないという慣例を破り、「歌」を披露したのだ。「よもの海みなはらからと思ふ世になと波風のたちさわくらむ」。

 戦争回避を願う異例の意思表示は、緊迫した状況を平和へと引き戻すはずだった。しかし3か月後、日本は勝ち目なき戦争へ突入する。戦争か否か、天皇の知られざる苦闘と決断を描く。(著作権上の理由等で、一部放送とは異なる部分があります)〉――

 天皇は発言しないという慣例があったが、それを破って、異例の意思表示を行った。理由の説明がないから、ネットを調べてみると、天皇の発言が天皇自身の責任に関係するのを避ける目的からといったことが紹介されているが、これは二つの点から疑わしい。

 先ず一つは国家の重要な政策を方向づける会議の場で天皇は発言しないのが慣例となると、何のための大日本帝国国家の統治者なのか、意味を失うことになる。

 第二に天皇の責任を言うんだったら、大日本帝国憲法第4章 國務大臣及樞密顧問「第55條」で、「國務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」と規定している以上、総理大臣以下の、現役武官の陸軍大臣、海軍大臣を含めて、天皇は我々の助言に従っただけだから、天皇には責任はない、責任は我々にあるとすれば、済むことである。

 だが、責任回避を目的に天皇が発言を控え、それを慣例としているならば、国家の統治者であり、陸海軍の最高統帥者である天皇を排除した形で国の政策は決定されていることになる。

 この天皇臨席が形式に過ぎないという事実は大日本帝國憲法第1章「天皇」で規定している天皇の各権限自体が形式に過ぎないことを物語ることになる。既に触れているように天皇はお飾りに過ぎなかった。そして天皇の臨席が形式であることに対応して発言権を満足に与えられていなかったという事実を見ないわけにはいかないことになる。

 大日本帝國憲法第1章「天皇」の条文に反するこの二重性は、勿論、存在理由があって成り立っていることだが、先ずは何のために天皇は存在したのか見ていく。

 天皇はその時々の内閣や軍部首脳にとってお飾りに過ぎなかったが、1890年(明治23年)10月30日の明治天皇公布の「教育勅語」で国民一丸となっての天皇への奉仕を求め、昭和12年(1937年)発行の「国体の本義」で、万世一系の天皇が皇祖の神勅を奉じて大日本帝国を永遠に統治する在り方が我が国の万古不易の国体であり、その天皇とは神の子孫であると同時に皇祖及び代々の天皇と御一体で我が国を統治する現人神であって、永久に臣民・国土の生成発展の本源として存在し続けると天皇の権威を神格化の高みにまで持っていき、そのような天皇の本質を国民の目に具体的に示す在り方が帝国憲法第1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」であり、第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」だと、天皇という存在の絶対性を国民意識に植え付ける目論みが為されていた。

 だが、既に触れたように最重要な国策決定の場である御前会議では天皇が日本帝国の統治者としての、あるいは陸海軍の最高統帥者としての、さらには現人神としての意思表明を行うのではなく、逆にその意思表明を控えることを慣例としていた事実は政府首脳や陸海軍首脳が天皇のこれらの権限を、あるいは帝国憲法が表現している天皇の存在性自体を認めていないことの何よりの証明であって、天皇を除いた支配層側の憲法上は絶対的としている天皇という存在を虚構とする絶対性と国民向けに宣伝している絶対性の二つの絶対性――この二重性も天皇は負っていることになる。

 天皇の絶対性に対する天皇を除いた支配層側のこのような無視は何も御前会議ばかりのことではない。『小倉庫次侍従日記・昭和天皇戦時下の肉声』文藝春秋・2007年4月特別号)の昭和14年5月9日の日記には次のような記述がある。

〈御乗馬、御すすみあらざりしも、天気好かりしを以って遊ばしいただきたり。防共協定の問題に付、御軫念(ごしんねん・心配の意)と拝す。〉――
 
 解説を受け持っている昭和史研究家・作家の半藤一利氏は次のように説明している。

 〈このころ、昭和11年11月広田弘毅内閣のときに締結した日独防共協定を、軍事同盟にまで強化する問題をめぐって、平沼騏一郎内閣は大揉めに揉めていた。陸軍の強い賛成にたいして、海軍が頑強に反対していたのである。このため平沼首相、有田八郎外相、石渡荘太郎蔵相、板垣征四郎陸相、米内光政海相による五相会議が連日のように開かれていたが、常に物別れとなり、先行きはまったく見えなかった。〉

 3日後の「小倉庫次侍従日記」の記述。

 〈5月12日 秩父宮殿下10時参内。(以下略)〉――

  半藤一利氏解説「『昭和天皇独白録』(文春文庫)にはこう書かれている。

 『それから之はこの場限りにし度いが、三国同盟に付て私は秩父宮と喧嘩をしてしまった。秩父宮はあの頃一週三回くらい私の処に来て同盟の締結を進めた。終には私はこの問題については、直接宮には答へぬと云って、突放ねて仕舞った』」――

 昭和天皇は日独伊三国同盟締結には反対していた。秩父宮は締結に賛成で、天皇を説得しようと皇居を頻繁に訪れた。対して昭和天皇は「私はこの問題については、直接宮には答へぬ」と突っぱねた。要するに反対の意思を賛成の意思を示している秩父宮に個人的に表明していた。

 なぜこのような個人的な対応を取っていたかと言うと、五相会議に答がある。「五相会議」(Wikipedia)

 〈「五相会議」とは、昭和時代前期の日本において、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣の5閣僚によって開催された会議。 主に陸軍・海軍の軍事行動について協議され、これを実現する財政・外交政策のために蔵相、外相も出席した。 議案の必要に応じて企画院総裁なども出席したことがある。〉――

 外国と軍事同盟を締結することの是非を議論する重要な国策決定の場でもある五相会議から日本帝国の統治者であり、陸海軍の最高統帥者たる天皇の出席は排除されていた。しかも天皇自身は三国同盟の締結に反対していながら、結局のところ締結されたという事実は政府や陸海軍が賛成の立場を取った場合、天皇の賛成の承認のみが必要であって、反対の意思は無視されることを示すことになり、天皇が大帝国憲法上担うその絶対性は政治や軍事の場では虚構に過ぎないことになって、やはり政府や陸海軍にとってお飾りそのものであることを暴露することになる。

 いわば政治・軍事の実権は憲法の規定どおりに昭和天皇ではなく、政府・軍部が握っていた。この権力の二重性は昭和天皇に限ったお仕着せではないし、その時代に限られた権力構造ではないことは昭和天皇が第6回御前会議で詠んだ「四方の海皆はらからと思う世になど波風の立ちさわぐらむ」が祖父明治天皇の作で、日露戦争開戦前に詠んだものの、この意思表示に反して日露戦争に突入した事実によって、明治天皇までもが同じ実体、虚構の絶対性を纏っていたことを証明することになる。

 言葉を変えて言うと、明治天皇は和歌を読むことでしか日露戦争に反対の意思を示すことができなかった。そして昭和天皇は日露戦争開戦阻止に何の役も立たなかった明治天皇作の和歌を対米英開戦反対の意思表示として詠むことしかできなかった。
 
 明治天皇は父親の孝明天皇の満35歳での崩御(1867年1月30日-慶応2年12月25日)に伴い、大政奉還(慶応3年10月14日-1867年11月9日)の約9月前に皇位を継承した。年齢16歳。この明治天皇の父親の孝明天皇の崩御については、『大宅壮一全集第二十三巻』(蒼洋社)に、「当時公武合体思想を抱いていた孝明天皇を生かしておいたのでは倒幕が実現しないというので、これを毒殺したのは岩倉具視だという説もあるが、これには疑問の余地もあるとしても、数え年16歳の明治天皇をロボットにして新政権を樹立しようとしたことは争えない」と書いている。

 大宅壮一は孝明天皇暗殺説を全面否定しているわけではない。岩倉具視以外の誰かが行った可能性を残している。例え暗殺でなかったとしても、薩長一部公家の討幕勢力が天皇を頂点に据えたのは徳川幕府約265年間の歴史とその権威のスケールに対抗するに薩摩藩主や長州藩主、単なる公家では見劣りがして、徳川に遥かに優る皇紀2500余年の歴史を当時抱えていた皇室という存在を旗印として必要としたからだろう。

 そして自らを官軍と位置づけ、徳川幕府方を皇室から政権を簒奪した賊軍と位置づけて、自らの勢力の正当性を打ち立てることで士気の点でも優位を狙い、徳川幕府を倒すことができ、明治政府の発足となったが、薩長連合一部公家政権が明治天皇をロボット、いわば単なるお飾りにし、権力の二重構造としたのは本人が政治・軍事について右も左も分からない数え年16歳という若さだけが原因を成したわけではない。

 歴史的に朝廷に代わって世俗勢力の台頭以降、いつの時代も朝廷という存在に対して権力を実質的に掌握していたのは世俗勢力自身であって、世俗勢力は日本国を統一した豪族連合の頂点に立っていたという朝廷の権威だけを必要とし、その権威を利用して天皇を頭に置きながら、政治を恣にした。当然、歴代天皇自身が自らの力で126代の地位の全てを紡いできたわけではない。大和朝廷成立以降から世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子をのちに天皇の地位に就け、自身は外祖父や外戚として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする権力の二重構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の歴史的に伝統的な常套手段となっていった。

 例えば古墳時代の豪族、蘇我馬子らの父親である蘇我稲目が娘を天皇の妃とし、その子が用明天皇や推古天皇として即位していて、権力を恣にしている例は日本史の早い時期から権力の二重構造が確立してことを示す例となる。

 さらに蘇我馬子が自分の娘を聖徳太子に嫁がせて山背大兄王(やましろのおおえのおう)を産ませているが、聖徳太子没後約20年の643年に専横を極めていた蘇我入鹿の軍が自らの権力の確立のために古人大兄皇子(=ふるひとのおおえのおうじ、舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の娘の蘇我法提郎女=ほてのいらつめ)を天皇に立てるべく、斑鳩宮を襲わせ、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)らを妻子と共に自害に追い込んでいる例にしても外戚として天皇の権力を我が物にしようとする権力の二重構造を企む典型例であり、飛鳥時代にも引き継がれていたことを示すことになる。

 平安時代中期の公卿の藤原道長にしても同じ常套手段を利用した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后とし、次の三条天皇には次女の妍子(けんし)を入れて中宮とするが、三条天皇とは深刻な対立が生じると、天皇の眼病を理由に退位に追い込んで、長女彰子の生んだ後一条天皇を9歳で即位させ、自らは後見人として摂政となり、政治を動かすことになった。

 一年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り、後継体制を固める。後一条天皇には四女の威子(たけこ)を入れて中宮となし、「一家立三后」(=「いっかりつさんこう」、天皇3代の皇后を全て自分の娘にしたこと)と驚嘆されたという。そして藤原氏の次に権力を握ることになった平清盛も娘を天皇に嫁がせて、外戚(がいせき・母方の親戚)となって権勢を誇ることになった。

 要するに世俗権力者である豪族たちが自分の娘を天皇の后(きさき)に据えて生まれた子をのちに天皇の地位に就け、自身は外祖父か外戚として世俗上の実権を握り、天皇を名ばかりとする権力の二重構造は豪族たちの権力掌握と権力操作の常套的手段として忠実に受け継いで行く伝統となった。

 時代が下って自分の娘を天皇に嫁がせて、その子を天皇に据える傀儡化――血族の立場から天皇家を支配する権力の二重構造は廃れ、源頼朝以降、距離を置いた支配が主流となっていくが、自身の武力で天下統一を果たしていながら、天下統一による国家支配の正当性は朝廷に付与させた征夷大将軍の役職に置き、国家支配そのものは自らが行う権力の二重構造の形式は維持された。

 一方で明治に入って薩長一部公家とそこから派生した軍部が憲法で天皇を国家統治者とし、陸海軍の最高統帥者等、国家の最高位に位置づけるが、天皇としては表向き敬うものの名目的存在にとどめて、国民に対しては「教育勅語」や「国体の本義」で著した思想や精神の教化を通して天皇を敬い、従うべき絶対的存在に仕立てて、名目的と絶対的の使い分けで国家と国民を天皇の名のもとに統治する権力の二重構造へと姿を変える。

 本質部分では変わらない、この歴史的に伝統的な権力の二重構造をより強固に維持する要件として考え出され、実行に移された権威が万世一系であり、男系、あるいは2千何年という長い歴史であり、現人神であるといった天皇家を飾り立てる数々の壮大な仕掛けであり、仕掛けが大きい程にその権威を利用する側は大きな効果を見込むことができる。その手の利便性から結果的に126代も延々と続いたということであろう。

 このことが同時に国民統治の優れた装置として大きな力を発揮したということになる。

 でなければ、天皇が歴史的に名目的な存在とされてきたことに反するこれらの壮大な権威付けの説明がつかない。

 「国体の本義」その他を通してこのような天皇の権威付けに迫られたのは明治以降、西洋の文化・文物が入ってきて、国民がその影響を受けやすくなった国情(開戦の前年は都市部ではアメリカブームに沸き、ハリウッド映画やジャズが流行していたとNHKの日本の戦争を取り上げた放送が伝えていた)、さらに昭和に向かう過程で列強との対立と競争が激しくなってきた国情を受けて、天皇の権威を利用して国家権力を恣にする世俗勢力が国論の統一、いわば政府にとって望ましい形の国民統治を確保しつつ、国家統治の実権を守り続ける権力の二重構造維持の利便性を担保するためには、当然のこと、天皇の権威は壮大であることが望ましいからだ。

 米英戦争の過程で天皇の権威はより強調されることになり、政府の天皇の名前を利用した呼びかけに応じて、兵士は戦場に赴き、一般国民は銃後の支えとなり、それが自国国力を過大評価した杜撰な戦争計画だとは知らないままに多くの兵士が戦場に散り、多くの一般国民が激しい空襲や艦砲射撃で命を落とすことになった。

 このように天皇が権力の二重構造維持のために利用される存在だったことを考えると、安倍晋三が2006年7月20日発刊の自著『美しい国へ』の中で、「日本では、天皇を縦糸にして歴史という長大なタペストリーが織られてきたのは事実だ」と書き、2012年9月2日の日本テレビ「たかじんのそこまで言って委員会」に出演して、「むしろ皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになる」と言っていることは、権力の二重構造からしてバラバラになるのを防いでいたのは天皇の権威を利用して国を治めてきた世俗勢力なのだから、安倍晋三の歴史認識は軽薄なフィクションに過ぎないことが分かる。

 明治以前の歴代天皇は、例外はあるが、殆が皇室という世界でのみ生息してきた。明治に入って世界政治の表舞台に立つことになったが、その権威を必要とされるだけで、政治的決定権は世俗勢力に従う受け身の存在であることに変わりはなかった。

 天皇と世俗勢力の権力の二重構造からすると、安倍晋三の皇室の存在と日本の伝統及び文化をイコールさせる歴史認識、日本の伝統と文化は皇室と共にあったと見る歴史認識、日本の歴史そのものを一連続きのつづれ織、タペストリーに喩えて、真ん中の糸を皇室と見る歴史認識は明治以降から終戦までの政府や軍部がいたずらに天皇を権威付けてきたきたことの踏襲に過ぎない。安倍晋三が戦前型の国家主義者であることの所以である。

 そもそもからして多くの歴史学者が神話上の人物としか見ていない神武天皇を初代天皇として、その即位年から日本建国の年数を数える日本式の紀年法である"皇紀"なる名称は4世紀末頃から5世紀頃の大和朝廷成立当時からあったものではなく、1872年(明治5年)に「太政官布告第342号」を以ってして制定したものであって、政府は1940年(昭和15年)が皇紀2600年に当たるとしてその年に大々的に奉祝行事を行うことになったが、明治に入ってから使い始めたという経緯からすると、皇紀元年を西暦紀元前660年に当てていることから、天皇家の歴史が西洋の歴史と遜色ない長さを持っていることを材料に日本の歴史及び大日本帝国と天皇を権威付ける仕掛けであったことがミエミエとなる。

 天皇に付与したあれこれの権威が国民を統治するための仕掛けに過ぎなかったからこそ、対米英戦争で日本が不利な状況に立たされると、天皇の権威が崩れ去るのを恐れて、大本営は天皇直属の最高戦争指導機関でありながら、国民に対してだけではなく、天皇に対してもウソの戦況報告をするに至った。この点からも軍部は実質的には天皇の下に位置していたのではなく、天皇の上に位置し、天皇を名目的存在として扱っていたことが露見する。だから、対米戦争反対の天皇の意向を無視して、対米戦争に突入することができた。

 天皇をより良き国民統治装置とするために神の子孫とし、且つ現人神だと敬わせ、日本は神国だと日本民族の他民族と比較した優越性を謳い、天皇の神格化とその優越性を国民の精神に植え付けて国民を鼓舞し、戦争に駆り立てるのは天皇の利用で済むが、冷徹で合理的な計算が求められる戦争の場にまで日本人の優越性用いて鼓舞する精神主義を持ち込んだのは天皇の権威を利用して国民を支配し、統治する計算を裏切って、政府や軍部までが日本民族の優越性に取り憑かれていた証明となり、その合理精神の欠如が自国国力過大評価と米国国力過小評価を生み、杜撰な戦争計画へと発展していったと見るほかない。

 当然、戦死者はその犠牲となったのであり、政調会長だった当時の高市早苗が2021年10月18日の秋季例大祭に靖国を参拝した際、「国策に殉じられた方に、尊崇の念を持って感謝の誠をささげてきた。日本人として感謝を捧げるのは当たり前だ」と語った言葉は、当の国策が自国国力過大評価と米国国力過小評価を内容とし、そのような杜撰な国力評価に基づいた杜撰な戦争計画となっていたのだから、思いどおりの力で戦った類いの"殉じた"とするのは戦死の実相を奇麗事に見せる企みそのもので、思いどおりに戦えずに戦死を強いられたといったところが大方の戦死の実際の姿であったはずだ。

 戦闘に於いて日本民族の優越性に基づいた精神主義が罷り通っていた例を敗戦まで用いられていた大日本帝国陸軍の「歩兵操典」から簡単に見てみる。注釈等は当方。

 「歩兵操典(全)」(豆辯- Douban)

 〈第2
戦捷(戦勝)の要は有形無形の各種戦闘要素を総合して、敵に優る威力を要点に集中発揮せしむるに在り
訓練精到(詳しくて、よく行き届いていること)にして、必勝の信念堅く、軍紀至厳(極めて厳しいこと)にして、攻撃精神充溢せる軍隊は、能く物質的威力を凌駕して戦捷(戦勝)完うし得るものとす

 〈第3
必勝の信念は主として軍の光輝ある歴史に根源し、周到なる訓練を以って之を培養し、卓越なる指揮統帥を以って之を充実す
赫々たる伝統を有する国軍は、愈々(いよいよ)忠君愛国の精神を砥礪(しれい:努め励むこと)益々訓練の精熟を重ね、戦闘惨烈の極所に至るも上下相信倚(しんい:信頼する)し、毅然として必勝の信念を持せざるべからず

 第6
軍隊は常に攻撃精神充溢し、志気旺盛ならざるべからず
攻撃精神は忠君愛国の至誠より発する軍人精神の精華にして、強固なる軍隊志気の表徴なり。武技之に依りて精を致し、教練之に依りて光を放ち、戦闘之に依りて勝を奏す。蓋し勝敗の数は必ずしも兵力の多寡に依らず。精練にして、且つ攻撃精神に富める軍隊は、克(よ)く寡を以って衆を破ることを得るものなればなり

 第68
突撃は兵の動作中特に緊要なり
兵は、我が白兵の優越を信じ勇奮身を挺して突入し敵を圧倒殲滅すべし。苟も(いやしくも)、指揮官若しくは戦友に後れて突入するが如きは深く戒めざるべからず
兵は敵に近接し突撃の機近づくに至れば、自ら着剣す〉

 「第2」、作戦は地理や天候、地勢、地の利の不利・有利、そして敵軍と味方軍の兵力の差等、各戦場の状況を計算した戦術の具体性の良し悪しによって決まるはずだが、「敵に優る威力を要点に集中発揮せしむる」の「敵に優る威力」は兵力(兵員数や兵器の種類とその数量、その性能などの総合力に基づいた戦闘能力)が必須要素となるが、そのことを考えない精神論で成り立たせた戦術の具体性もない抽象論そのもので成り立たせている。

 緻密な訓練(=訓練精到)が、「必勝の信念」を育み、厳しい軍紀(=軍紀至厳)が「攻撃精神」を充溢させ、そういった優れた要素に満たされた軍隊は、相手の物理的戦闘規模(=物質的威力)を上回って戦勝をもたらすとしていることは、そういった信念や精神をしっかりと身につけさえすれば、三八式歩兵銃でアメリカ軍の機関銃群に立ち向かったとしても、戦いに勝利できると言っているようなもので、戦術・戦略を全く抜きにした精神論そのものでしかない。

 「第3」、「軍の光輝ある歴史」が「必勝の信念」を生み出して、その信念のもと、「忠君愛国の精神」に努めて、訓練技術の向上に励み、将兵が相信頼し合えば、どのように激しい戦闘に遭遇しようとも、必ず勝利するだという自信を持たせなければならないとしているが、ここでは必ず勝利するという自信を持つことができると確信を与えるのではなく、自信を持たせるよう義務としている点は少なからず自信がなかったのかもしれない。

 だが、戦術を抜きにした精神論を語っていることに変わりはない。忠君愛国の精神と日本軍人としての誇り・自信が勝利をもたらすという精神主義が日米陸軍武器の量及び性能を含めた戦力差にしても、陸海含めた兵員数の差にしても約10倍以上とされた状況下で戦局にどう影響するかという合理的判断を排除している。

 「第6」、「勝敗の数は必ずしも兵力の多寡に依らず」が事実であったとしても、「忠君愛国の至誠」に発する「軍人精神の精華」、それが生み出す「強固なる軍隊志気」が「攻撃精神」をもたらしたとしても、様々に想定した数多くの実地訓練を通して獲得する戦闘行動を体と頭に記憶させ、記憶させた戦闘行動を実際の戦闘で状況に応じて臨機応変に再現することのできる身体的スキルを身につけることの方が実際的で、それでもなお兵力差の影響を受けることを頭に置いておかなければならない必須要件であり、「忠君愛国の至誠」に基づく「軍人精神の精華」だ、「強固なる軍隊志気」だ、「攻撃精神」だだけでは片付かないことを認識させる注意が必要だが、精神論だけで終えている。

 「第68」、敵陣地に近接できた場合の集団の突撃は一定程度の犠牲を計算に入れた上で効果は見込めるが、近接とは言えない距離からの集団の突撃は敵の火力の餌食に曝されるのが精々で、それを、〈我が白兵の優越を信じ・・・敵を圧倒殲滅すべし。〉と、戦場で敵味方が抱えることになる様々な状況・条件の違いを考慮せずに精神主義をベースに無条件の勝利を可能としている。

 1942年8月7日から1943年2月7日までの約7ヶ月間のガダルカナル島の戦いでは、NHKのテレビ放送が伝えるところでは、島を占領したアメリカ軍に対して奪還を目指した約900人の日本陸軍がアメリカ兵力1万人に対して2000人程度と誤認、さらに睡眠中と誤認したのだろう、小銃の先に剣を装着し、夜間の白兵突撃を敢行、対してアメリカ軍は飛行場の周辺に集音マイクを設置、日本軍の動きを察知、待ち構えていて、2方面から機関銃などを浴びせる十字砲火で応戦、日本軍900人のうち777人が命を落とすことになったと伝えていた。

 アメリカ軍が万が一待ち構えていたなら、どう戦術転換をするかという危機管理を頭に置かない勢いに任せた突撃で勝利を計算できるのは精神主義頼りだからであって、精神主義を単純画一的な戦術としていたからだろう。

 日本側が米英の7倍余の310万もの戦死者を出した事実は突撃は個々の戦場での個々の戦いに限定された精神主義を纏わせた戦術ではなく、戦争全体が精神主義に裏打ちされた突撃の性格を帯びていたことの証明とすることができる。

 このような精神主義だけを頼りとした戦争はあまりにも合理性を欠いている。杜撰な日米国力評価に基づいた杜撰な戦争計画を結果として招いたことはある意味当然だったと言える。

 戦闘の場面では勝敗を左右する重要な要件は兵力や地勢に基づいた戦術の如何にあるのであって、忠君愛国や、軍の光輝ある歴史によって叩き込まれた帝国軍人魂ではないことを教えられないままにそれらを戦いの主たる要件とした場合、合理的精神は抑えられて忠君愛国だ、帝国軍人魂だといった精神主義だけが顔を利かすことになり、いとも簡単に戦争のリアリズムの生贄になるのは目に見えている。

 ところが、合理的思考力が必要とされる戦後になっても、国民統治装置として万世一系だ、男系だ、現人神だと様々に権威付けてきた歴史から目を逸らして、そのような天皇の存在を根拠に日本民族の優越性を謳う少なくない日本人が存在する。

 例えば国家主義的心理性で安倍晋三とベッドを共にしている高市早苗は2021年9月29日投開票の自民党総裁選に向けて自身の思想と政策を纏めた『美しく、強く、成長する国へ』(Kindle電子書籍)云々の著作の中で、「大自然への畏敬の念を抱きながら勤勉に働き、懸命に学び、美しく生き、国家繁栄の礎を築いて下さった多くの祖先の歩みに、感謝の念とともに喜びと誇らしさを感じずにはいられない。現在においても、126代も続いてきた世界一の御皇室を戴き、優れた祖先のDNAを受け継ぐ日本人の素晴らしさは、本質的に変わっていないと感じている」と謳い上げているが、この主張を成り立たせている根本思想は天皇主義に基づいた全体主義である。

 祖先のDNAを全て優れていると見ていて、当然、その子孫である現日本人を全て優れていると見ていることになるが、"優れている"とした場合、日本民族優越意識があからさまになるからだろう、"素晴らしい"と一段と和らげた表現となっているが、その評価を日本人全体に置いている以上、日本民族の全体的優越性を謳い上げていることになる。

 また、高市早苗がこの日本民族優越意識の根拠を皇室の存在や戦前の歴史から見ていることは自身のサイト、『高市早苗ブログ』2002年08月27日)に、〈欧米列強の植民地支配が罷り通っていた当時、国際社会において現代的意味での「侵略」の概念は無かったはずだし、国際法も現在とは異なっていた。個別の戦争の性質を捉える時点を「現代」とするか「開戦当時」とするかで私の答え方は違ったものになったとは思うが、私は常に「歴史的事象が起きた時点で、政府が何を大義とし、国民がどう理解していたか」で判断することとしており、現代の常識や法律で過去を裁かないようにしている。〉と述べていることから明らかだが、歴史的事象が起きた戦前の時点の1941年12月8日の時点では未明の米ハワイ島オアフ島真珠湾基地に対する奇襲攻撃の戦果が国内で伝えられ始めると、多くの国民が常に天皇の存在を背景に置いて、知識人を交えて戦果を歓呼で迎え、日本の敗色が濃厚になった以降も大本営の国民の戦意喪失の防止からの偽情報の流布、あるいは不都合な情報の隠蔽工作が功を奏して、国民が戦争を支持し続けていたことは事実と言える。

 安倍晋三も2006年7月20日発刊自著『美しい国へ』の中で、「列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化する中、マスコミを含め、民意の多くは軍部を支持していたのではないか」を論拠に、「その時代に生きた国民の視点で歴史を見つめ直す」と書いていて、出来事が起きた時代に生きていた人間の総体的解釈が歴史認識だとしている。

 いわば両者共に国民がその当時、何に賛成し、何に反対したのか、そのことによってのみ、歴史は価値づけられる、あるいは歴史は解釈されるとしている。だが、二人のこの考え方自体が論理矛盾に彩られている。なぜなら、日本が米英に宣戦布告した出来事自体は当時はまだ歴史にはなっていない、国家の政策遂行(=国家行為)に過ぎないからである。何らかの国家のその時々の政策遂行(=国家行為)が歴史の形を取るためには時間の経過、時代の経過が必要条件となる。つまり当時の国民ができたことは開戦、あるいは戦争という国家の政策遂行(=国家行為)に対する賛否――是非の解釈のみである。

 特に政府・軍部等の国家の支配層の国民に対する天皇絶対崇拝の教育、あるいは洗脳が行われていて、ほぼ無条件に国の政策に従属させられた時代下で自由な意思表示・判断は表沙汰にはできなかった。表沙汰になったり、密告されたりしたら、国賊とか、アメリカのスパイとして取り締まりを受けるか、社会的な制裁を受けることになった。

 逆に後世の国民ができることは戦前当時の国家状況及び世界状況や社会状況等を起因とした国家の政策遂行(=国家行為)が時間の経過、時代の経過を経て歴史となった時点で時間・時代の経過と共に蓄積することになった知識・情報を背景とした現在の国民の目を通した是非の解釈である。決して国家の政策遂行(=国家行為)に対する当時の国民の解釈そのままに同調する、しないが歴史解釈ではない。

 当然、安倍晋三が、いわば「その時代に生きた国民の視点」を歴史解釈とする、高市早苗が過去の出来事はその時代の常識や法律で裁くと言っていることは当時の日本国民は殆が天皇と国家を支持していたのだから、戦前日本の天皇制に基づいた国家体制、大日本帝国国家を肯定している両者の歴史認識となる。

 この肯定を歴史認識としている以上、安倍晋三や高市早苗等の保守政治家が「お国のために命を捧げた」、「国に殉じた」を口実とした靖国参拝を戦前国家肯定儀式と断じているのはこの点にある。

 と同時に戦前の大日本帝国国家に歴史認識を肯定的立場から寄り添わせている関係からして、両者共に個人よりも国家に絶対的価値を置く国家主義者の範疇に入れることができる。

 自国国力過大評価・米国国力過小評価に基づいた杜撰な戦争計画で戦った戦争であるということと、兵力の差、武器の性能の差、地の利の有利・不利、時間帯等々を計算し尽くした合理性に則った戦術ではなく、合理性も何もない精神主義を拠り所とした戦い方を叩き込んで、闇雲に突撃精神だけで戦わせて多くの兵士を死なせたのだから、愚かな国策の犠牲となったが実際の姿でありながら、靖国神社に祀った戦死者に手を合わせて、国策に殉じたとか、国のために尊い命を捧げたとか、"国策"や、"国"を主体にして顕彰することができるのはやはり個人よりも国家の価値観を大事にする国家主義の姿勢を正体とし、戦前国家を肯定しているからできることである。

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