日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

センター試験の国語

2020-01-19 19:28:24 | 徒然

昨日と今日の2日間にわたって行われた「センター試験」。
現在の形式で行われる試験が、今回が最後ということ。
昨年秋、問題となり取りやめとなった民間の英語の試験の利用などの話題もあり、「センター試験」そのものが注目を浴びた感のある、試験となった気がする。

そして昨日の国語で、原民喜之「翳」が出題された、と話題になった。
原民喜に関しては、重たいテーマが多く高校生で読むような小説だろうか?という、気がしている。
もっとも、既に読んだことのある生徒と未読の生徒では、文章の理解が違ってくるということを考えると、高校生では馴染みが少ないであろう原民喜を選んだのは、良かったのかもしれない。
かくいう私も、原民喜の作品はほとんど読んだことが無く、今回出題された「翳」も読んではいない。
ただ、今回の出題内容を原民喜を愛読している大人の方が読んで、自分が思うような回答が正解となっていない、という指摘もあるようだ。

今回の原民喜に限らず、センター試験の国語では「解釈の違い」が問題になることが多い。
読者としての解釈と、出題者の意図を理解した解釈の違い、というと分かりやすいと思う。
「何を言っているのだろう?」と、思われる方もいらっしゃるかもしれないが、大学入試に限らず国語の試験には「一読者としての解釈(あるいは理解)」と「試験の出題者の意図を理解した解釈(あるいは理解)」の二つがある(と思っている)。

試験で試される力は「試験の出題者の意図を理解した解釈」であり「解答」だ。
そのため、一読者としての感想や解釈から解答を選んでも、正解になることはほとんどない(と言ってよいと思う)。
「受験テクニック」と言ってしまえばそれまでだが、この「出題者の意図を理解する」というのは、読書量による文章理解力と似ているようで全く別物だと思っている。
何故なら文章理解力は、作者と自分との対話の中で生まれる直接的な関係であり、その関係性は10人いれば10通りある。
誰一人として同じではないはずなのだ。
ところが試験の問題となると、出題者がどう考え・どのような解答を求めているのか?という作者との関係性の違いが出てくる。
出題者という最大の障壁が、立ちはだかるのだ。

そのため起きることが、自分で考える正解と出題者の考える正解が、違ってしまうということになる。
受験中の短い時間で、そんなコトを考えている余裕はないと思うのだが、国語のような試験の場合このような「ズレ」が往々にして起こる。
そのようなことを避ける為なのか?最近では「論理的国語」なる「国語教育」をする、という話まであるようだ。
確かに「論理的文章」には、作者と読者、出題者との間での齟齬が起きる可能性は、とても低い。
だからと言って「論理的国語」という、特別な国語があるわけではない。
新聞などに掲載されている文には、作者の感情や思いなどは無く、事実を淡々と正確に書いている文章なだけだ。
「国語」としての本質は、何も変わってはいないのだ。

ただ忘れてほしくないのは、実際に原民喜の「翳」を読み、どのように感じ・原民喜の言葉を受け取ったのか?ということだ。
それは試験とは関係なく、受験という場ではあったが原民喜という作家との重要な出会いだったからだ。