日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

年の初めに思う「マーケティングって、何だろう?」と

2020-01-02 20:34:11 | 徒然

昨年から読み始めて、読了はしたもののどこか十分な理解ができたとは思えず、何度か再読している本がある。
正しくは、本ではなくテキストだ。
E-テレで放送されている「100分de名著」の「善の研究」が、そのテキストだ。
ご存じの方もいらっしゃるとは思うのだが、「善の研究」の著者は西田幾太郎。
明治から終戦直前という日本激動の時代を、生き抜いた方でもある。

「100分de名著」もご存じの方も多いと思うし、この番組を通して知った「名著」も数多いと思う。
私自身、なかなか手が出せず読み逃してきた作品を、このようなカタチで理解することで実際の本を手に取る、ということもあったし、多くのテキストは100分かからずに読了し、それなりの理解も十分できるのだが、今回の「善の研究」と石牟礼道子さんの「苦海浄土」だけは、ストンと心に落ちてこないのだ。
石牟礼さんの「苦海浄土」に関しては、なんとなく理由が分かっているので、今ではなくもう少し時間をおいてから読みたい、と思っている。
それに対して、西田幾太郎の「善の研究」は、今感じ取る必要がある!と直観として感じているのに、迷路に迷いこんだような感覚なのだ。
その理由を自問してみてわかったことが、今日のタイトル「マーケティングって、何だろう」ということなのだ。

以前から日本(だけではないかもしれないが)「マーケティング」そのものの理解が、十分されていないのでは?という、印象を持っていた。
違う表現をするなら「ビジネスにおける『鵺』のような存在」が「マーケティング」なのでは?という、気がする時も多い。
それほど、言葉としての「マーケティング」と「マーケティングの本質」の理解が、違っているような気がしている。

では「マーケティングの本質」とは何だろう?と、考えた時ドラッカーの「市場を創造すること」と言う言葉と、コトラーの「問題を解決すること」と言う、二つの意味を思い浮かべるのだ。
それでも、どこか弱いような気がしていた時、「100分de名著」の「善の研究」のテキストにあった「フィロソフィー」の本来の意味が「マーケティングの本質」を示しているのでは?と、感じたのだ。

解説をされている若松英輔さんによると、「哲学」の英語「フィロソフィー」には「叡智を愛する」という意味があるそうだ。
日本におけるマーケティング研究の第一人者・故村田昭二さんの口癖だった「チャーム」という言葉には、「叡智を愛する」というニュアンスがあった(ように感じていた)。
とすると、「マーケティングの本質」は「社会哲学=ソーシャル・フィロソフィー」なのでは?という、気がしてきたのだ。

How toばかりを追い求める「マーケティング本」は、数多く出版され、書店での売れ行きの良いと聞く。
しかしHow toを知ったところで、自分の仕事・ビジネスに役立っているだろうか?
もっと本質的な部分での理解ができなくては、仕事・ビジネスに使うことができないのでは?
小手先の手垢がついたような陳腐化した戦略で、市場を創造したり企業の持つ力で社会の問題を解決する提案ができるのだろうか?
あくまでも個人的な考えとして「NO!」だ。
何故なら、そこには「社会とは何だろう?」とか、「市場の先にある社会や生活者の問題とは?」という考えが、無いからだ。

2020年という年は、これまでの価値観が大きく揺れ動き、場合によっては破壊的なことが起きるのでは?という、気がしている。
耳障りの良い言葉で言うなら「破壊的新しい価値創造」が始まる、ということかもしれない。
だがその保証となるものは、何一つないし「破壊的新しい価値創造」の時代を創っていくのは、ほかならぬ今を生きている様々な人たちだ。

お正月2日目そんなコトを考えつつ、いまだに「善の研究」のテキストと、格闘している。