NHK朝の連続ドラマ「あさがきた」が、好調のようだ。
毎週のように掲載される新聞の視聴率調査でも、高視聴率だということがわかる。
ちなみに、私が見ている視聴率調査は「東海地区版」で、一般的に使われている東京(関東版)とは、随分視聴率の数字が違うことが多い。
そして先日、「あさがきた」の次の次の作となる作品が発表された。
「べっぴんさん」というタイトルのドラマのようだ。
このドラマの話の筋が一部紹介されていたが、子供服の「ファミリア」の創業者を中心としたドラマのようだ。
NHKの朝の連続ドラマの制作は、前期東京、後期大阪と分かれているので、どうしてもドラマの舞台が前期は東京中心、後期は関西中心となってしまう傾向があるのは仕方ないと思う。
ただ、後期のドラマ作成を担当する大阪で制作されるドラマは、主人公の女性がとにかく元気な印象がある。
現在放送中の「あさがきた」の主人公は、嫁ぎ先の商売の危機を立て直すだけではなく、新規事業を次々と立ち上げ、失敗しても立ち上がり、事業を成功させる、という「タフな女性」だ。
もちろん、その主人公を支える家族の物語でもあるのだが、とにかく「パワフル」という印象が強い。
そして次の次の作品である「べっぴんさん」のモデルとなった「ファミリア」の創業者は、「あさがきた」とは別の意味で「時代をキャッチする力」を持っていた女性のように思える。
というのも「子供服」のイメージを、「ファミリア」は大きく変えたからだ。
特に女児の洋服という点では、「お母さんの手作り」から「既製服」へと大きく変えたような気がする。
それだけではなく、「子供服のTPO」という点でも、革新的だったような気がする。
最も今は、普段着とよそいきの服の差が無くなってきているので、そのような感覚はないかもしれないが、「ファミリア」が作りだす「可愛い、清潔感、おしゃれ」という女児服というのは、私が子供の頃(と言っても40年以上前の話だが)は、当時の母親たちにとってはとても重要な「購入ポイント」だったように思う。
家庭での洋裁(=お母さんの手作り)から、既製服へと大きく変化した時代でもあったからだ。
そのように見てみると、関西の元気を取り戻すには女性の力が必要なのかも?という、気がしてくる。
今でも「関西のおばちゃん」というと、パワフルなイメージがあるが、そのパワーの使い方を違う方向へと持っていくコトが、関西(経済を含む)の復活(というと大げさだが)という気がしてくるのだ。
もちろん、ドラマなのである程度「誇張」されている部分があるにしても、女性の持つしなやかさと強さを上手に活かすような社会文化があったのでは?という、気がしてくるのだ。
そういえば、小篠綾子さんをモデルにした「カーネーション」なども、関西ならではの女性の姿だったような気がする。
アイドルグループ「SMAP」が、解散するのでは?と、昨日からNHKをはじめニュースで取り上げられている。
いわゆる「ジャニーズ系アイドル」に興味がないので、「SMAP」が解散ということになれば、解散をしたのだな~と、思うくらいだと思う。
ただ「SMAP」という、男性アイドルグループは「アイドルグループ」の在り方を変えた、アイドルグループなのでは?という気がしている。
ご存じの方も多いと思うのだが、ジャニーズ系アイドルの多くは「グループ単位」で活動が中心だった。
「フォーリーブス」の頃から、「SMAP」が登場する前の「光GENJI」くらいまでは、「グループの誰々」という印象で、一旦グループから離れてしまうと、メンバーの個性というものがほとんど感じられないタレントとして、終わってしまっていたように思う。
もちろん、すべてのジャニーズ系アイドルグループのメンバーが当てはまるわけではないが、全体の印象としては「グループ>個人」という印象だったような気がする。
それに対して、「SMAP」の場合グループでの活動と並行して個人としても活躍をしてきた。
しかも「アイドル」という枠にこだわらず、活躍の場を広げてきた。
個人として活躍するときには「SMAPの誰々」ではなく、個人の名前が挙がるというアイドルグループだ。
だからこそ、「SMAP」として活動するときの新鮮さが、失われにくかったのかもしれない。
この「ビジネスモデル」の成功により、その後に続く「TOKIO」や「V6」、「嵐」などの人気グループを創っていくコトができたのでは?という、気がしている。
もう一つ感じることは、楽曲提供者たちの多さだ。
スガシガオさんや「世界に一つだけの花」の槇原敬之さん、山崎まさよしさんなど、いわゆる「アイドルグループの楽曲提供者」ではない、アーティストの楽曲を選んできている。
今では当たり前のように思える起用だが、「SMAP」の人気が出始めたころは、やはり異質な感じがあった。
「え!このアーティストがSMAPに曲提供をするの?」という驚きもあったし、SMAPに曲提供したコトでメジャーになったアーティストもいる。
その意味では、J-POPという世界に「アイドル」という要素を加えた、グループのような気がする。
それまでの「男性アイドルグループ」というイメージを変え、個人とグループという絶妙なバランスの上で活動をしてきた、というのは「アイドルグループ」のイノベーター的存在だったのではないだろうか?
「SMAP」のメンバーもアラフォーとなり、すでに「アイドル」とは言えない年齢になりつつある。
何より、「SMAP」の成功に続く「TOKIO」や「V6」のメンバーも30代~40代。
これらのグループに続く、絶大な人気を持つ20代のアイドルグループが、登場していない(私が知らないだけかもしれないが)ことを考えると、「SMAP」の解散(報道)の影響は、大きいかもしれない。
今朝、FMを聞いていたら聞きなれない「ソロ男(「そろだん」と読む)」という、言葉を聞いた。
番組を聞いていると、30代~50代の経済的には自立をしている、独身男性を指しているようだ。
博報堂:゛ソロ活動系男子(通称「ソロ男(だん))”の研究活動及びマーケティング活動支援を開始
マーケティングというか、市場調査で何かと話題というか消費の中心として捉えられるのは、女性であることのほうが多い。
スーパーなどで食品を購入することはもちろん、ファッションなどでも購入行動の中心は、常に女性であった。
だからこそ、様々な方法で「女性客」をつかもうとしている。
最近の例では、「女子会」という言葉に象徴される、女性グループを意識した旅行プランや飲食プランなどだろう。
ところが最近(静かに?)話題となっているのが「ソロ男」と呼ばれる、男性らしい。
特徴は、「ケチで浪費家」。
相反する言葉が並ぶのだが、説明を聞くと納得をした。
普段の食事は気にかけず、当然お金もかけずにカップ麺などを食べているのに、自分の趣味やこだわりのあるコトになると、お金に糸目をつけずに購入してしまう、ということのようだ。
もう一つの特徴?として、「人目が気になる割に自分が大好き」という傾向もあるらしい。
「晩婚化」という言葉を聞いて久しい。
このとき大体にして言われることは、女性の初婚年齢が上がってきている、という指摘だ。
「男はいくつになっても結婚ができるが、女性には期限がある」という、ニュアンスが含まれているコトが多い。
どうやら、女性ばかりの問題でも無いような気がするのだ。
上述した通り、ソロ男の男性は経済的には十分自立しているので、経済的理由で結婚ができないわけではない。
自分の趣味や自分のやりたいコトを優先するあまり、結婚をしないのだ。
たとえ結婚をしても、家庭や家族よりも自分のコトを優先してしまう傾向があるので、「結婚に向かない」ということらしい。
逆に考えれば、経済的に自立している30代~50代の男性というのは、同じ世代の女性よりも得ている収入は、多い。
それだけ「自由に使えるお金を持っている」とも言える、新しい市場なのだ。
自動車という市場で考えてみても、ソロ男の選ぶ車種はその男性の趣味によって随分違うものだろう。
アウトドアが趣味という人であれば、SUV車となるかもしれない。
ドライブが趣味という人であれば、スポーツタイプを選ぶ可能性が高いだろう。
そして、そのような趣味のコミュニティーサイトを立ち上げることで、顧客の囲い込み+商品開発のアイディアをもらうことができるかもしれない。
昨日、英のロックシンガーで俳優でもあった、デビット・ボウイの訃報が報じられた。
デビット・ボウイとの初めての出会い(というと、大袈裟だが)は、1970年代の初め。小学校高学年の時だった。
おそらく「スターマン」か「スペースオデッセイ」が、ヒットしその時のライブ映像がテレビで放映された時だったと思う。
その時、デビット・ボウイが着ていた衣装が、山本寛斎さんのデザインのジャンプスーツ?のようなものだったのだが、小学生の私にとっては、目が点。不思議な宇宙人のような人だな~という印象が強く残った。
もちろん、その時来ていた衣装が、山本寛斎さんデザインのものだということを知ったのは、随分後になってのことだった。
この時、デビット・ボウイが着ていた衣装が話題となり、山本寛斎さんは一躍トップデザイナーに躍り出たのだった。
そして、訃報のニュースとともに「グラムロック」という言葉が、再び注目されるようになった気がする。
デビット・ボウイが「グラムロック」の先駆者のように言われているようになったのは、やはり男性が化粧をしステージに立った。ということだけではなく、その衣装にも独特のものがあったからだ。そして「グラムロック」そのものは、その後、ザ・フーの「トミー」などに代表される「ロック・オペラ」や、大がかりで演劇性のあるステージ、アルバムへと影響を与えていったように思う。
そのようなことばかり注目されるのだが、実はクラシック音楽へも造詣が深く、お子さんが小さい時にはプロコフィエフの「ピーターと狼」のナレーションを担当したアルバムをリリースしている。
その後、セサミストリートのパペットでおなじみのジム・ヘンソンが監督をした映画「魔王の迷宮/ラビリンス」では、魔王として出演している。
ジム・ヘンソンのファンというだけではなく、映画冒頭にチラッと映るモーリス・センダックの絵本「かいじゅうたちのいるところ」のファンであった、という話も聞いたコトがある。
決して、スタイリッシュなロックシンガーだけではなく、今風の言葉でいうなら「イクメン」という、一面も持っていた。
そして昨日、遺作となったプロモーションビデオを拝見して、改めて感じたことは最後まで「クリエーターであった」ということだった。
洋楽全体が、似たり寄ったりの楽曲が多くなっている感がある中、挑戦的な楽曲というだけでなく、映像そのものも挑戦的な印象を受けたからだ。
このプロモーションビデオそのものには、賛否が分かれるかもしれない。
むしろ、賛否が分かれることも想定していたのでは?とすら、感じさせる。
ヒット曲「レッツダンス」や「チャイナガール(このプロモーションビデオも、物議をよんだビデオであった)」、あるいは映画「戦場のメリークリスマス」で見るデビット・ボウイだけではない、多面性を持った挑戦的な人であったような気がする。
このお正月休みに、フランスの人口学者であり家族人類学者であるエマニュエル・トッドの「ドイツ帝国」が世界を破滅させる、という本を読んだ。
その前に読んだ、コトラーの「資本主義に希望はある」と、読み比べてみるといくつかの共通点があり、また欧州の中からの視点と米国からの視点の違いに、「なるほど」と考えるコトがいくつもあった。
共通している点というのは、「金融が国(=政府)を動かしている」という点だ。
「金融」というと、銀行や証券会社を真っ先に思い浮かべると思うのだが、エマニュエル・トッドもコトラーも銀行や証券会社のことだけを指しているのではない。
大企業などが「ロビー活動」という名で、政治家を動かし、政治家がこのような企業の意向を優先するコトを指している。
「政治がお金に膝まづく」というと、言葉が悪いと思うのだが、そのようなことを二人がEUと米国という内側から観て、指摘をしている。
おそらく、日本でも同じようなコトが、起きているのではないだろうか?
少なくとも、「アベノミクス」で潤ったのは、大企業と一部投資家、そして代々膨大な資産(主に株や土地)を受け継いできた人たちであった、ということを考えると、決してEUや米国だけのことではないような気がする。
何より、大企業の法人税の軽減や富裕層の所得に対する税負担と、中産階級以下の所得に対する税負担という視点では、まさに今の日本の生活者が生活実感として感じているコトに近いのでは?という、気がした。
そして、コトラーが指摘した「サブプライムローン」の問題は、国という単位で考えると「ギリシャの経済破綻」と、根っことなるのは同じことなのでは?という気がした。
「サブプライムローン」などでは、「借り手が、返済できないほどのお金を借りた」コトが問題である、と指摘されてきた。
コトラーは「(借り手が)返済できないほどのお金を借りた」のではなく「返済できないほど、貸した」コトのほうが、問題である、と指摘をしている。
昨年ギリシャで起きた経済破綻は、EU内で「返済できないほど、貸した」コトが問題である、という指摘をしているのが、エマニュエル・トッドであった。
そして貸し手の理由についても、共通した認識を持っている、という点に驚かされた。
その一方で、ドイツと日本の共通点があることを知った。
それが「少子高齢化社会である」という点だ。
「少子化」の問題になると、真っ先に取り上げられるのは「出生率」。
日本の場合1.3人程度。ドイツもまた同じくらいの出生率なのだ。
欧州の出生率というと、フランスなど回復傾向にある国の報道はされるのに、ドイツのような日本と似た状況の国の報道が少ないのは、なぜだろうか?
それ以外にも家族形態が「家父長制」である、という点もドイツと日本の共通点であるコトを、初めて知った。
ただ日本の場合、これまで好調であった産業が頭打ちになってきているのに対し、ドイツが好調なのは東欧からの安い労働力を背景としている点を挙げている。
だからと言って、日本も同様に東アジアの国々に生産拠点を移していくコトが、日本経済を良くしていくコトにはならないはずだ。
むしろ、今の日本に必要なことは「国内の生産力を高める」という点にある。
それは、日本だけではなく米国もフランスも、同じ問題を抱えているように感じた。
様々な視点を与えてくれた、お正月の読書だった。
ウィークディの朝聞いている番組で、気になる言葉があった。
「フィンテック」という言葉だ。
ご存じだろうか?
リポビタンD TREND EYES:2016年は「大変化の年」普及が予測される”フィンテック゛とは
NHKニュースウォッチ(特集まるごと):新しい金融ビジネス 急成長する゛フィンテック”
によると、「金融(=ファイナンス)」と「技術(=テクノロジー)」を合わせた、造語のようだ。
昨年の暮れ、イオン銀行が「指紋認証による、ATM」を発表し、拙ブログでもエントリをした。
実際、すでに一部銀行のATMでは、指紋認証ではなく「手のひら静脈認証」によるATMがある。
そのようなATMはあるのだが、実際に利用している人はほとんどない(というか、見かけたことがない)。
おそらく、この認証システムを利用するためには、事前に「手のひら静脈」を登録する必要があるため、その「登録」そのものをためらう人が多いのでは?という気がしている。
「指紋認証」についても、同じようなコトが考えられる。
実際「指紋を採る」というと、良い気持ちのものではない。
子供の頃我が家に空き巣が入り、最寄りの警察で指紋を採られたことがあったが、子供ながらに「なんとなく、嫌だな~」と、思った記憶がある。その記憶があるせいだろうか?「指紋を採る」コトに抵抗感がある。
ただ、違う見方をすると「指紋認証」を上手に使えば、様々なメリットがある。
それは「セキュリティー」という点だ。
イオン銀行が運用メリットとして挙げている、災害時の引き出しなどでは「本人を確認する方法」がほとんどないため、「指紋認証」などの活用は有効だろう。
このような「本人確認の簡便化」となる技術と、金融が結びついていくコトは、利用者側にとってメリットが高いのでは?と思われるし、このシステムが問題なく普及していけば様々な分野で、個人情報が統合されていく可能性があるだろう。
例えば、「自動車免許所+健康保険証+病院などでの個人カルテ」などを統合するコトで、病歴などから運転免許の一時停止などができるようになるかもしれない。
その一方で、昨日総務省が「ポイント統一」という内容を検討している、とYahoo!のトピックスで取り上げられ、ネットユーザーから、大ヒンシュクのコメントが多数寄せられていた。
日本テレビ系:総務省 ポイントカード一本化を検討へ
何故、各企業が発行しているポイントカードをマイナンバーと合わせるのか、その理由がわからないのだが、これもまた「フィンテック」の一つだろう。
この「フィンテック」が普及するためには、利用する側のメリットが十分であるコト。
もちろん社会的メリットがある、という点も必要だろう。
何より「セキュリティー」に対する不安がないコト、が一番重要な点だと思う。
とすれば、この「フィンテック」が普及するためには、「汎用性とセキュリティーが高い」という、二つの相反するメリットを克服しなくては、難しいのではないだろうか?
先日エントリした「出版社の広告がない、正月広告」について、「集英社のお正月広告は挑戦的」というコメントを頂いた。
朝日新聞名古屋版になかったのか?私の見落としだったのか?と思い、集英社のサイトで確認をしてきた。
集英社:2016 AD
昨年、様々なところでメディア、特にNHKが政府よりだと言われてきた。
その一方、多くの人たちが「伝える。伝えられる情報の真意を知る」コトの大切さを実感した、1年であったかもしれない。
そのような社会の動きを「読書」という方法で、「伝えられる内容の理解」を深めるコトの大切さを訴えているのが、この広告だと思う。
しかも「読書」と「平和」という、関連性の無い言葉を並べるコトで、昨年の「戦後70年とこれから」という問題を提起しているようにも思える。
ご指摘の通り、とても挑戦的だが、反面押しつけがましいところがない。
と同時にこの広告には、様々な出版物が登場している。
左側の広告で目を引くのは、女子高校生の隣にいる高齢の女性が(どうやら)電子書籍で、読書を楽しんでいるようだ。
その右側の広告では、親子で漫画を読んでいる。子供が被っている帽子は右側のお父さんのものだろうか?
「平和だからこそ、自由に読書を楽しんでください。様々なことを読書を通して知ってください」と言っているかのようだ。
ただこの広告の意図は、広告の一番下にあると思う。
とても小さい文字なので、読みにくいのだが「永遠平和は空虚な理念ではなく、我々に課せられた使命である」という、カントの「永遠平和のために」の一文が掲載されている。
この小さな文字で書かれている、カントのことばこそ、この広告が訴えたいコトだと思う。
そして「書籍」が果たす役割というのは、先人たちが残したメッセージを伝え続けていくことであり、その使命を出版社は持っている、といことだと思う。
恒例となった?正月広告についてのエントリ。
全体の印象としては、低調というか面白味を感じさせる広告が、少なかったような気がしている。
その中で目立ったのは、オリンピックイヤーらしい「オリンピックサプライヤー企業」の広告だろう。
「パナソニック」などは、企業キャラクターのネイマールを起用した広告だった。
とはいえ、メッセージ性があったのか?というと「・・・」。
今年開催される「リオデジャネイロオリンピック」を意識している、というよりも「2020年東京オリンピック」開催に向けた広告だったような印象だった。
例年、美しいビジュアルとメッセージを発信している「資生堂」だが、通常の広告との差があまり感じられなかった。
広告全体を見ていて、何か物足りないな~と思って見直してみたら、出版社の広告がないことに気が付いた。
大体どの新聞でも、毎週日曜日には本の紹介記事が掲載されていると思うのだが、出版社の広告というのは新書籍の紹介広告が基本で、出版社の企業広告というのは正月広告くらいしかなかった。
その各出版社が、申し合わせたように1社も広告を掲載していなかったのだ。
例年だと「少年ジャンプ」を出版している、集英社などは「少年ジャンプ」の人気漫画の主人公たちが登場したり、小学館などが子供向けの「辞書」の広告を出したり、ムック本で話題を創った「宝島社」のように、ちょっと社会風刺をしているような広告を出しているのだが、そのような広告を目にするコトがなかった。
出版業界の不振を表しているのか?それとも新聞という媒体が古くなり、広告を出す意味を感じさせなくなったのか?
確かに、電子書籍などが普及しはじめ「本を読む」形態が、変わりつつある。
だからこそ、出版社として「どんな本や雑誌を出しているのか?」ということを、生活者に改めて伝える必要があったのでは?という気がしている。
なぜなら、「本や雑誌は知っているが、それらの本や雑誌を出している出版社は知らない」という、生活者は案外多い。実際私なども書店で本を探す時、タイトルは覚えていても出版社は覚えていない。
「出版社が広告を出す」というのは、その出版社のカラーというか思考とか方向性などを生活者に伝えるチャンスでもあると思うのだ。
そのようなチャンスを無くしてしまった、という出版業界に何が起きているのだろう?と、不安も感じている。
代わりに目を引いたのが、文春が「文春WOMEN」と銘打った女性を対象とした「週刊誌」を出したコトだ。
「女性週刊誌」ではなく、「女性が読む一般週刊誌」というスタンスだ。
内容が、どれほど通常の「文春」と違っているのか?と言われると、意識的に「女性向け」にするコト自体「文春の体質の古さ」を感じさせているように思うのだが、これも新しい動きなのかもしれない。
そして、「セブン・イレブンだけで元旦発売」という「週刊誌」もあった。
コンビニそのものは正月休みがあるわけではないので、何も「セブン・イレブン」に限定する必要はない、と思うのだが、「限定発売させるセブン・イレブン」の流通業界での力関係を感じさせるモノでもあった。
お正月広告というのは、どこか華やかで心ウキウキする要素があるものだが、そのような感じをあまり受けなかったことは、とても残念な気がする。
それだけではなく、日本の社会全体が決して心ウキウキできるような状況ではないのかもしれない・・・と、感じたのだった。
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
今年は、とても穏やかな年明けとなった。
温暖化の影響か?寒さも例年ほどではなく、温かな元旦だった。
朝、新聞を読んでいると「昨年の出生数が死亡数を上回った」という記事があった。
朝日新聞:昨年の出生数、5年ぶり増加へ 人口減少は9年連続
この記事を読んで、「高齢化社会なのだから、このような数字になるのは当然だろうな~」という、気がした。
今の日本では、医療の進歩で新生児の死亡率というのは、とても低い。
それに比べ、高齢者になればなるほど様々な「死亡リスク」は高まる。
そう考えれば、むしろ自然なコトでこの傾向はあと20年以上続くかもしれない。
言い換えれば、日本の人口はあと20年くらい減り続ける可能性がある、とも読み取れる。
昨年話題になった「地政学」の考えの中には、このような「人口統計」から見た社会の在り方というものがある。
単純に出生率が上がれば、その社会が若く発展する要素がある、というモノではない。
なぜなら、今年生まれた子供が社会人となるまでの時間的経過が、その時々の社会に様々な影響を与えるからだ。
と同時に、死亡率もまた社会を映す一つの鏡だと言える。
震災や戦争などによって、亡くなる方が増えるという場合を除けば、高齢者が亡くなることが多くなるのは高齢者社会では当たり前のコトだ。
亡くなるコトではなく、亡くなり方に焦点を当てるコトで、様々な社会的問題が見えてくる。
それが今問題になっている「独居者の認知症」であったり、「孤独死」であったりするはずだ。
より重要なことは、このような人口統計に出難い「自殺者の世代別データ」などと見比べる必要があると、思っている。
日本の働く世代の自殺者というのは、先進諸国の中でも高いと言われている。
「働く世代」は、様々な社会的役割を持っている世代だと考えると、この「働く世代」の自殺者によって失われる、社会的損失に着目する必要があるのでは?
それだけではなく、この世代の人たちが与える社会的影響の大きさなどを考えると、今回発表された出生と死亡の統計よりも、重要な要素があるといえると思う。
お正月から、あまりおめでたくない内容となってしまったが、人口統計などはビジネスを考えるうえでとても重要な資料となる。
だからこそ、その読み方・見方には様々な視点が必要だと考えている。
明日は、恒例?「お正月広告(新聞)」を予定。