かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

ビートルズとボブ・ディラン

2011年01月18日 | The Beatles

board”開運何でも鑑定団”をちらっと見たら、ビートルズファンクラブの初代会長の甥っ子が登場。おじの下村さんから、お母さんがもらったビートルズの来日公演のチケットを鑑定依頼。
ポールのサイン入りということで、120万円の予想だったが、32万円評価となった。
チケットは、未使用で、20万円。ここまでは妥当だが、ポールのサインは、右利きの日本人によるもので、偽物との判定。でも、ビートルズの最初の日本のファンクラブの会長である下山さんが所有していたものということで、さらに12万円プレミアムがつき、32万円となった。
それにしても、当時、ポールのサインを似せて書くなどありえたのだろうか?
まぁ、ポールのサインだったとしても、80万円ぐらいだと思うのだけど。

ビートルズファンクラブの初代会長は、ハードデイズナイトを上映した映画館の館長さんだったそうだ。私設ファンクラブ会長が、ビートルズ来日時にホテルに招かれたというからほほえましい。暇つぶしに四人で書いた絵をもらったのだが、たった?300万円で、相続人は売ったという。サザビーで、それが1500万円で売られていたと言っていた。価値を知らないとは、恐ろしいものだ。

アップルのジョブス氏がまた休養した。病気が病気だけに心配。でも、不死鳥のように蘇ってくるような気がする。アップルのように。



ビートルズとボブ・ディランという本を読んだ。去年の5月に出た本。著者はお馴染の中山さん。近時、ますます明らかになってきたビートルズとボブ・ディランのデータを積み上げて、著わした本だが、単なる事実の積み重ねにとどまらない、壮大な物語に仕上がっていた。

ビートルズとボブ・ディランは、同世代。本書によれば、ボブディランが、ビートルズを知ったのは、初渡米した1964年2月。ビートルズがボブディランを初めて聞いたのは、1964年1月からのフランス公演の頃という。お互い、自国での足固めをし、グローバルな人気を得ようとしていた時期だ。
中山氏は、ビートルズは、エプスタインによって作られたといい、ディランは、自ら作り上げたという。言い得て妙だ。
ビートルズとディランは、お互いに、すぐ、ただものではないと気付いたようだ。

特に、ジョンは、ぞっこんで、二度目の渡米で、面談を果たす。64年8月だ。そして、ディランからマリファナを習ったビートルズは、大きな変貌をとげた。ディランは、フォークギターをエレキに変えた。ただ、これは、中山氏によれば、元来の姿に戻ったということらしい。
ビートルズは、サージャントペパーズのアルバムカバーに、ディランを載せたし、ジョンは、解散後、ディランを信じないと歌った。ジョンが信じなかったミュージッシャンは、エルビスと、ディランと、ビートルズの3人?だけだ。

ビートルズがコンサートを止めたのと、ディランがバイク事故を起こして、隠遁生活にはいった時期と合致する。その後のブランク後、ウッドストックの年、ワイト島コンサートで、彼らは再会する。そして、ビートルズは、解散。

しかし、そこから、ジョージとディランの関係は深まる。バングラディッシュのコンサートにディランが参加したのは、かなり奇跡的なことだった。私は、この映画で、ディランの動く姿を初めて見たのだが。その後の、78年の来日コンサートで、生ディランを見ることになる。

ちなみに、今から思えば、まだベトナム戦争真っ最中に、音楽の教科書(中1?)に、ギターコード付きの”風に吹かれて”が載っていて、それを理由に、親にねだってギターを買ってもらったのは、いい想い出だ。

そして、トラヴェリングウィルベリーズ。本書によると、ジョージのシングルのB面の曲作りに集まったメンバーにより、この覆面グループが偶然結成された。その時の曲が、ディランのスタジオ(自宅ガレージ)の看板にあった取り扱い注意(Handle with Care)だっという。この様子は、今は、復刻盤も出て、かなり明らかになってきている。男の友情?を感じるすばらしい瞬間だ。

単なる1人と1グループの歴史の書と思うことなかれ。
この交流が、今のミュージックシーンの基礎になっていると言っても過言ではない。この出会いがなければ、ビートルズは、ただの人気バンドで終わったかもしれないし、ディランも、ただのフォークシンガーで終わっていたかもしれない。

まさに、二つの個性が、化学反応を起こしたと言える。まさに。


コメント
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