かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

A&BC Chewing Gum

2011年09月25日 | The Beatles

symbol5昨日は、金沢に行っていて、何もできなかったので、今日は、台風の後始末第二弾を行った。一応終わったつもりだが、根こそぎ倒壊してしまった庭木が再び根付くかはわからない。行方不明だった、片方のサンダルを庭の隅っこで発見した。どんな風が吹いたんだ?



気まぐれで、A&BC Chewing Gum のおまけだった、ビートルズのブロマイド?をGETした。

全部で、60枚。
見たことがある写真が多いが、初めての写真もある。
写真の全てに、ビートルズのメンバーのサインがあるが、もちろん印刷。でも、白黒写真に、ブルーで印刷されているので(印刷がいい加減なのか、濃淡があり、それがまたリアルだ)、なかなか雰囲気が出ている。ユニークな凝り方だ。

裏には、これらの写真が、ビートルズのマネージャーだったブライアンエプスタインが経営していたNEMSのCourtesy によるものとされているが、ビートルズのメンバーが潤ったかは、定かではない。著作権ビジネスが、まだ根付いていない時代のことだ。
ただ、予想したよりは、しっかりしたブロマイドで、当時のビートルズマニアが目の色を変えて収集したことは、想像に難くない。

A&BCって聞いたことがなかったので、NETで調べてみた。
1949年から1974年の25年間営業していて、風船ガムとコレクターズカードで有名だったようだ。
最初ABCという名にしようと思ったが、既に同名の会社があったため、A&BCという、風変わりな名になったという。当時のコンペティターは、アメリカのBubbyとWrigleyだった。Wrigleyは、もちろんシカゴの名門企業。シカゴ・カブスの本拠地であるWrigley Filed の所有者でもある(たぶん)。まだ戦後間もなく、砂糖の調達も難しかった時代だ。
ガムと写真をセットで売ることにより、A&BCは、大化けした。最初は、映画やTVの俳優、スポーツ選手を使っていたが、60年代に入り、ビートルズを使うことにより、大ブレイクしたのだ。

この情報によれば、A&BCの出したビートルズのシリーズは、3シリーズ。最初が、今回GETした60枚シリーズ。1964年のこと。
その後、1965年に、40枚シリーズと、45枚シリーズが出たらしい。
72枚収納できるカードケースもGET。
ケースと言ってもただのノートで、1頁に4枚づつブロマイドを張るようになっていて、ブロマイドの収納箇所の4隅に斜めの切れ目を入れて、ブロマイドを収納するよう指示されているが、なかなかうまくできなかったようで、結局セロテープで、集めたカードをペタペタ張っていたようだ。最終ページには、1枚、1枚のコメントを、番号順にメモできるようになっていて、コレクター心をくすぐる。

プレスりーや、ストーンズ、モンキーズシリーズまであったようだ。その他にも、時代を反映した興味深いシリーズが多くある。

子供のころ、狼少年ケンのシールを集めて箪笥にべたべた張っていたのを思い出した。
確か粉末ココアの付録だったと思うのだが。時期的には、同時期だ。
流石に、こちらの方は、この世に残っていないだろう。



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古民家再生

2011年09月24日 | Other Western Japan


今日は、ひょんなことで、金沢に行ってきた。
最高の天気だった。
これは、駅前にあったオブジェ。意味わかんない。
新幹線も着々と建設が進んでいる。
飛行機の便利さと対抗できるのかは、不明だが。



今日訪れたのは、この民家の再生プロジェクトのため。
更地に、新しい家を建てるのとは、訳が違う。
でも、この百歳近い家を再生させる価値は十分にありそうだ。
京都の町家と似ているが、金沢ならではの特色がそこここに見られるという。
そして、このような町家は、残念ながら、金沢には、ほとんど残っていない。



この酒屋さんも、再生プロジェクトで蘇った家という。
こんな風にできればいいんだけど。
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ぶらりインドその23 ルンビニー

2011年09月23日 | India・Sri Lanka・Nepal・Bhutan・Uzbekistan
alien今日は、台風でぐちゃぐちゃになってしまった庭を基に戻そうと奮闘したが、道半ばに終わった。連休中に、格好つけられるかな?



涅槃に入ったクシナガラから、80年遡って、ブッダが誕生されたルンビニーに行った。
正直、苦労した。
元々ネパールの中でも、ルンビニーのある地区は、マオイストの強い地域とされ、入国しようとした当日も、マオイストの指導で、イミグレのストが行われていた。
商用以外はOKとされていたが、乗っていた車が商用とされかかり、なかなか入国できなかった。
結局、入国はできたが、その日は、危ないからということで、ホテルでごろごろしただけで、翌日、ストが明けてから、ネパール内をうろちょろした。
ルンビニーには、早朝訪れた。言わずもがなだが、お釈迦様が生まれたところ。
お母様の摩耶夫人が、カピラ城から、出産のため、実家に戻る途中のルンビニーで、サーラ樹に手をかけたところ、右脇からお釈迦様は、誕生されたという。
朝早かったせいか、訪れる人も少なく、聖地にふさわしい落ち着いた佇まいだった。
アジア各国から、瞑想のため訪れている人はいたが、日本人は、私だけだった。
そういえば、ブッダガヤ以降、タージマハールまで、日本人には、全く出会わなかった。

丹下健三さんが、この公園のデザインをしたそうだ。
昔の写真を見ると、遺跡がむき出しになっている。



摩耶堂。
中は、建物の基盤の跡で、その上にお堂が建てられている。
中には、お釈迦様が生まれたところとされるところが特定されており、ルンビニーで、一番神聖な場所となっている。
その脇に、お釈迦様が生まれた様子を刻んだレリーフがあるが、イスラム教徒によってか、顔が削られている。



アショカ王の石柱。この石柱が見つかったことで、この地がブッダの誕生地であることが特定され、もっと言えば、ブッダの存在が、史実であったことが確認されたのだ。
この石柱が見つかるまで、ブッダが実在したかどいうかは、論争になっていたという。

hanadiところで、今朝の大手新聞に、中国が(政府がどの程度からんでいるかは不明だが)、ラサから、カトマンズ経由で、ルンビニまで鉄道を通すことを計画しているという記事が載った。
嘘とは思うが、本当だったら言語道断である。
仏教を弾圧し、チベット人を弾圧し、ダライラマさんを亡命させ、そのまま放置し続ける中国が、何故、仏教の聖地である、ネパール領のルンビニーに、鉄道を通す理屈があるのか?
ネパールにも、中国から亡命したチベット人がたくさん住んでいる。
ネパールへの影響度を増し、インドに対してプレッシャーを与えるための謀略だろうが。
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ぶらりインドその22 クシナガラ

2011年09月22日 | India・Sri Lanka・Nepal・Bhutan・Uzbekistan


クシナガラは、ブッダが涅槃に入ったところ。
右が仏塔で、左が涅槃堂になる。



涅槃堂の中には、涅槃のお姿のブッダ像がある。
グプタ朝時代のものとされるが、ありがたいお姿である。
右側を下にして、頭を北に向けるお姿は、全世界共通だ。



これは、ちょっと行ったところにある荼毘塚。
ここにも、いろんな逸話が残る。
ここで、ブッダは、荼毘に付された後、8つに分骨され当時の各王国に配られたという。
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ぶらりインドその21 ヴァイシャーリー

2011年09月21日 | India・Sri Lanka・Nepal・Bhutan・Uzbekistan
rain今日は、台風到来。帰宅時間に重なることはわかっていたが、3時過ぎから電車を止められてはどうしようもなかった。
運転再開から2時間もたってから出たのに、全然来ず、やっときたと思ったら、満員で乗れず。
やっと乗ったら、駅に止まる度に、押し合いへし合いの修羅場。
急停止は、するは、行き先は変わるは、踏んだり蹴ったり。
もうちょっとどうにかならなかったのだろうか。
まだ9月なのに、家に着くころには、オリオン座が頭上に見えた。

5月のインドの旅からずいぶん経ってしまったが、とにかくいつか完結させたい。
これからも、合間合間に?紹介を続けるつもり。
でも、この調子だと、50回ぐらいは、行きそうだ。



ヴァイシャーリーは、ブッダが出家して、最初に訪れた地。
そこでの修業には、飽き足らなかったとされる。
当時のリチャヴィ族の首都として栄えたというが、その面影は、全くない。
これはストゥーパ跡。
ブッダが、涅槃に入るため、クシナガルに向かったところもヴァイシャーリー。
ブッダの布教活動の際、何度も訪れたところとされている。



仏塔跡を、アショカ王の石柱+獅子の像が見守っていた。
かつての姿を想像するのは、難しいが、確かに、いろんな建物があったのはわかる。
発掘も続いていた。玄奘も訪れたと記録されている。



アショカ王の石柱の獅子の像。
完全に残りすぎているような気もするが。
アショカ王の石柱の上に像が残っているのは、ここも含めて2ヵ所しかないという。
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