森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

架空畳「大法螺」

2007-12-27 01:07:43 | 観劇・コンサート日記

 「横浜STスポット」にて、架空畳の「大法螺」を観に行ってまいりました。

 

 クリスマス・イヴのその日、街は見たこともないような人混みで溢れかえっていて、私は自分がいつの間にか特別な田舎から出てきたような、そんな気持ちになりながら歩いていました。

それでも、時折すれ違う人が言う言葉が耳に残りました。

「今日はなんていう人の多さなんだ。」

 

 クリスマス・イヴの夜、街全体がパレードになってしまうのでしょうか。その時私はふと、何か問題を起こすとすれば今日だなと思いました。人々は笑いひしめき合って、煌く光の中を乱れながら行進しています。その水面下で何かが起きている・・
私の頭の中で、かってに突っ走るミステリーやアクションドラマ・・

そうしてたどり着いた「STスポット」。どんな大法螺が聴けるのやら。

開演間近になって、ふとパンフレットを見ると「BIG HORROR」の文字が・・・
― えっ、ホラー!? ―

 

 

 今回の公演は二人劇。
そのオープニング、二つの場面が二人の独白で同時に進行していきます。

 雉が犬を襲い、その後のそれを目撃していた少年が遺骸を絞る話は耳を塞ぎたくなるような嫌悪を感じましたが、その後の全ての伏線になるので耳を塞ぐわけには行きません。

 そして少年は気付くのです。犬がこんな目に遭っているのに、家の者は誰も気が付かないのだろうかと・・・
で、その時同時に語られている怪しげな水の押し売りの最後・・

 

    今と同じ時代、今と同じ場所、今と同じ時間。彼は、僕と同じアパートの隣の部屋に住んでいる。西暦2007年12月25日クリスマスの PM7:00。僕と彼は、初めて出会って、そして知る。今と同じ時代、今と同じ場所、今と同じ時間、同じアパートの隣同士。けれど、二人は、違う国に住んでいる。僕らの共通の話題は、たった一つ。たった一つの、小さな殺人事件。(架空畳のHPから)

 

その後展開するロクロウとミヤちゃんの奇妙なストーリー。私の頭の中では
♪ ちゃかちゃんちゃんちゃん ちゃかちゃん  たら~リ~♪と、
「世にも奇妙な物語」の音楽が鳴り響きます。

人々が笑いはしゃいでいるクリスマスのその日に起きた核の脅威にによってもたらされた日本消失。死んでいることにも気付いていないロクロウと、その想像から生まれてきたミヤちゃんの物語かと錯覚してしまいますが、どうでしょう。

架空畳のストーリーはそこまでと思えばそこまでになってしまうことも多々ありますが、それはそれで面白いのではと思います。

ただ、彼らのストーリーはここからが違います。次のセリフ、また次のセリフが鍵になり、次のストーリーに誘います。

 

私は、ふと思います。
まさに同じ時同じ空間にいるのに、もしかしたら、この劇場にいる観客達は、皆違う芝居の終わりを見ているかもしれないという不思議さです。

 

犬は誰が殺したのか。
少年はいつ死んだのか。
ミヤちゃんはいつ生まれたのか。
あの時、ロクロウがミヤちゃんの部屋に行っている時に、やってきた者は誰なのか。

たぶん映像にしてしまったら、一目瞭然のことでも、それぞれのイマジネーションで落ちていく穴が微妙に違うような気がします。それこそが舞台劇ならではの穴と言う所でしょうか。

舞台劇ならではということでは、思わず騙された「カボスの話」。
「カボス日記」はいかにも犬の話と被っていたので、騙される事なく気持ちが悪かったのですが、カボスを冷蔵庫に入れるシーンでは、すっかり騙されてしまいました。二つの部屋と言う設定で、存在しない冷蔵庫の扉を開けてお互いにカボスを片方は出し、片方は入れていく。瞳と言うカメラワークは正面から捉えている。すると脳は彼らの手のひらに薄いオレンジ色のカボスの姿を具象化していってしまうのです。

耳から入ってきた「カボス日記」では、
はは~ん、アレは人間のことを言っているんだなとか思っていたとしても、視界に実際にはないものを見よと命令されて、見てしまうものには、かくのごとく強い思い込みがあるのですよね。

想像力が生み出す恐怖と救い。

もしかしたら、最初に理不尽に命を絶たれてしまった水売りの、全ては死に至るまでの、その恐怖を救うための大法螺な夢なのかもしれません。

 

 さてさて、このワタクシは、この劇中の人物ロクロウと似たようなもので、自分の感性の5分の一は漫画で育ててしまっているようなものです。だからこそ、頭の中では「ジョジョの奇妙な冒険」の杜王町に出てくる幽霊屋敷のことを思い出したり、ミヤちゃんの登場に「20世紀少年」を思い出したり忙しかったのです。
ですが、また別に想いは過去に飛んで行きます。

かつて誰もがその日のクリスマス・イヴのように、賑わい浮かれていた年の瀬。世界中の誰もが「未来」というものを見つめていたその時、「新世紀」を見ることが叶わなかった家族がいました。遺留品も多く犯人は外国人ではないかと言われたりもしています。でも、未解決です。

忘れてはいないよと言うメッセージみたいなものを、私はふと感じてしまいました。
感じてしまうという事は考えると言うことよりたちが悪く、どうしようもないことなんですよね。

 

 

 またまた、思ってしまった話を一つ。
つい最近迷い犬が、徘徊していた女性を一晩中暖めて、その命を守った話は記憶に新しいと思いますが、その時ほぼ同時にチンパンジーの子供の瞬間記憶能力が、いじょうに優れているというニュースもやっていました。私はその時、おせんべでも食べながら、テレビに向かって
「雉はどうした。!!」と叫んでいました。

 と、同じ時間のその頃、「カラス」と書いてあった脚本にぴぴっと二本線を引き「雉」と書き直した作家様の姿をふと、またも想像してしまい、笑っていました。

 

 最後にシェークピアばりの長ゼリフを一気に語り、いきなりその世界に観客を引っ張り込もうが、拍手なく、素晴らしいと感動されてもカーテンコールもない彼ら、(だからといってワタクシが率先してやる勇気もないと言う情けなさ)。なので、ここにてもう一度拍手なんかをさせていただいて、終わりにしたいと思います。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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