近頃記事が長くなりがちで、テーマから外れそうなものは、「また違う記事にて書く」と分けるような事を言うのだけれど、なかなかその続きを書く事が出来なかったりします。
なんだかそれは自分の中の宿題になってしまうような気もするのですが、しばらくすると、まあいいか、覚えている人もいないだろうしさ、と何処かに打っちゃったりして。
でも時々「劇団金子」の検索で来る方がいると、いったいこの人はどう云う人なんだろうかと不思議に思ったりするのです。そして「劇団金子」の「旅するシカーダ」は追記を書くといったきり放置してあるのが、気になってしまったりもするのです。読み返してみると、短くてもそのままで良かったような気もするのですが。
その記事は一応こちら、→△
私が「劇団金子」の旗揚げ公演の感想を、最初に全部書かなかったのは、どうせ書いたところで関係者は読みたくもないだろうし、誰が読むんだいと思ったからなんですよ。
物語の感想とか「良かったよ」と言う言葉はいくらでも聞きたいもの。でも、こうすれば的な意見は一言だって聞きたくはないもの。そんな事は作り手側の常識。分かっています。
でもこうなったらどさくさに紛れて、と言うかほとぼりも冷めたというか、ちょっと本音でサクッと呟いてみたりして・・・。
お話はとっても良くて、感激もしました。「劇団金子」の良さは、ストーリーの分かりやすさにあると思います(とっても大事な事ですよね。)でもエピソードが多すぎて、一つ分減らしたほうがすっきり見る事が出来たはず。役者さんにも多少の無理を感じました。でも、難ある部分を言い切れなければ、演出は舞台を作りきれないと思います。
ああ、言っちゃったなあ。これってたぶん読まない特定の一人に向って書いているのかも知れません
しかも読み返し、客観的にこの文を見ると、私は何様なのと言われても仕方がないほど偉そう~(汗)
でも、それだけ「愛」があるって言う事なのさ。
だからと言って、じゃあ私の子供なんだと誤解されても困ります。もし、自分の子供がこういうことをやっていたら、私はもっとキツイな。もっと本を読め。もっと人様の舞台を観ろ。今は基礎を作り土台を作れ。と、うるさいおっかあになること間違いなし。
でも、こうも言う。
「人の感想なんかに左右される必要なんかないよ。自分が感動するもの、俺ってやるなあと自分で褒めたくなるものが出来たら、いいのさ。」ってね。それを積み重ねていったとき、いつの間にか緩やかな坂道を登っていた事に気がつくものなんだって。
ああ、大人が次に続く若い人たちに、自分の失敗を通して本当に言いたいことは、なかなか聞いてもらえないんですよね。私達がそうだったように。そしてその人たちも同じような事を、私達の年齢になった時に思うのかしら。
しっかりしてよ、お子様達。
だけど誰が検索しているのだろう、「劇団金子」。気になります。
気になるといえば「架空畳」検索でも、同じような事を感じます。意外といらっしゃるのですよ。
この劇団の人たちは、まだ手伝っている人の中には大学生の方もいるのかもしれませんが、たぶん近い過去に学生だった人たちの演劇集団です。彼らのお芝居には荒削りながら若い息吹と新鮮な感覚を感じます。
私は、彼らが未来に夢を描くのと同じ線上に立って、実は似たような夢を見ているのです。
「あっ、私、彼らの事を最初から知っているよ。ぜんぜん素人さんだった時から。ああ、立派になって嬉しいなあ。」と、誰かに一言いいたいがために、遠い所から密かに応援しているのかも知れません。
(なにげに失礼な言い方。ゴメンチャイ。)
誰かの夢は微振動になって、また誰かの心を密かに揺らしたりする事もあるのでしょう。
夢はそうやって伝わっていくのですよ。形を変えながら・・・
だから若者よ、夢、持ち成され―
って、うちのお坊ちゃま達、夢、持っている~?
なんかね~・・・ 不安&不満・・・