森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

偉大なるミステリー作家「エドガー・アラン・ポー 200年目の疑惑」

2009-04-01 18:00:39 | テレビ・ラジオ

31日NHKハイビジョンで8時から、「偉大なるミステリー作家『エドガー・アラン・ポー200年目の疑惑』」という番組を見ました。

この番組を見たのは、はっきり言って藤原竜也君目当てと言うのが一番の理由なんですが、実は私は結構、ポーの事が好きなんです。だから番組自体もとっても面白かったですよ。

ポーの事を好きといっても、作品は少しは知っていますが彼自信の事をぜんぜん知りませんでした。あれだけの作品を残した人が、生涯貧乏だったとは思いも寄りませんでした。ポーの不遇な生涯と幼い妻への愛と死。彼の人物像と彼の生涯の謎に迫ります。

 

江戸川乱歩の名前の由来が、エドガアランポとポーの名前から来ているのは有名なことですが、多くの推理作家がその影響を受けていることが分かります。

江戸川乱歩の依頼を受けて明智小五郎役の藤原竜也君が、NY、フィラデルフィア、ボルチモアなどで調査するという形で案内されるのですが、ポーの住んでいた街は、その息遣いが感じられる街でした。壁に描かれたポーの肖像、街に立つ大鴉の像・・

竜也君がポーの家の書斎で、イスに座る所などワクワクしました。ただイスに座るだけなんですが、ポーのかつていた空間、同じように存在し何かを生み出していた空間に自分がいるというワクワク感がしました。自分がいるというのは大いなる錯覚ですが、代わりを充分に彼が果たしてくれている感じがしました。

「黒猫」のモデルにもなっていると思われる、地下でも同じような感覚を感じました。

今までアメリカってぜんぜん興味がない場所でしたが、行ってみたくなりました。でもこういうマニアックな旅って、なかなか出来ないことですよね。

彼、竜也くんは仕事を通して、多くの事を学んでいますね。

 

「モルグ街の殺人」の所で、思ったのですが、彼、こういう探偵ものが似合いますね。是非今度はドラマとか映画でやってもらいたいです。今の彼は映画のために体を作っていると思うのですが、あごの線がシャープで綺麗。今なら何でも出来そうだなと思います。(誤解をされそうな文かしら?)

藤原竜也君の魅力を充分に見せて、彼のファンにはたまらない番組でしたが、ポーの謎の魅力も充分で、なかなかの番組だったと思います。夫と一緒に見ていましたが、ロッキーの足あとのところでは、あそこでやらないわけにはいかないよな、と夫婦で盛り上がりましたよ。

夫は「事件は書斎で起きているんじゃない。」が気に入ったみたいですが。

ただ、最初の文献拝読、量が多すぎてほとんど頭の中を通過してしまったことが残念でした。それだけ意気込んで作ったと言うことでしょうか。

「アッシャー家の崩壊」と「アナベル・リー」の事は、いつかブログに書きたいと思っていたことなのですが、そんな気持ちが強くなってしまいました。あまり自分に宿題を課するのは辞めようと思っているので、いつになるのか分かりませんが、その作者の背景を知るということがとても大切なことなのかも知れませんね。


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「さよならだけが人生サ」の続き

2009-04-01 02:04:01 | 梢は歌う(日記)

 

3月31日真夜中に書いた記事「さよならだけが人生サ」の続きです。

「さよならだけが人生だ」と言う言葉は、元々は「唐詩選」の中にある詩で「勧酒」の訳なのですが、井伏鱒二の名訳です。

「さよならだけ」の「だけ」が時にはネガティブなイメージを与えたり、その言葉だけが独り歩きをして様々なシーンで遣われることがあると思います。でも、その原文は・・・
ちなみに「唐詩選」などは主に高校の頃、またはもっと専門的には大学などで学んだりするものですから、「お勉強」と言う感じになってしまいますが、漢詩って結構良いですよ~。

 で、原文でしたね。

于武陵(うぶりょう)作「勧酒」

勸君金屈巵
滿酌不須辭
花發多風雨
人生足別離

 君に勧む金屈巵(きんくっし)
満酌辞するを須いず
花発いて(ひらいて)風雨多し
人生別離足る
 

その意味は (このページを参考にさせていただきました。
君に黄金のさかずきを勧める。
なみなみと注いだこの酒を断ってはいけないよ。
花が咲けば 雨が降ったり風が吹いたりするものだ 。
人生に別離はつきものだ

おこがましくもkiriy式内容理解

「まあ君、飲みたまえよ。
野暮なことは言いっこなしだよ。
どんな邪魔が入って『次』がいつあるかなんて分からないことだよ。
今、この瞬間がすべて。なんたって人生に別れはつきものなんだから。」

「今このひと時」の出会いと別れがダイナミックに伝わってきませんか。

で、井伏鱒二の名訳。(講談社文芸文庫『厄除け詩集』)
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

こうして読むとぜんぜんネガティブじゃないですよね。いろいろな想いをひっくるめて短い言葉で言い表すことが出来るのは、俳句の国、日本ゆえのなせる業かもしれませんね。さよならを繰り返すけれど、その別れの数だけ出会いがあるわけだし。

というわけで、お勉強タイムは終わりです。で、コレがいつもの長い前置きだったというわけです・・・・。

 

             

この季節は、いつも別れがつきものです。受験も終わり去っていく子供の、その最後の別れの時も、私は「じゃあ、またね。」って言うのです。このことは昨年も書きました。その記事は→★です

その時の、つまり昨年高校に入学して我が家から巣立っていった少年に、浅草の帰りにばったり駅で会いました。私は彼にお祝いの図書カードを買って、渡す機会を失ってしまっていたことを思い出しました。駅で長々立ち話もなんですので、メルアドを変えるのが趣味の彼に、一度空メールを送ってと言いましたら、ちょっと困った顔をしました。

「私のアドレス、削除したのね。」と言うと、へへへと笑う彼。

それはそうですよ。別にかまわないんです。だって私は彼にとって過去の住人なんですから。それで送ってあげることにして、別れました。ふと別れ際に、普通は立場上聞くべき事を思い出し 
「部活ばっかりじゃなく勉強も頑張れよ。」と声をかけました。

「チョウ余裕っすよ。赤点あっけど。」

思わずこけそうになりましたが、なんだか彼は益々カッコ良くなっていました。大人に近づいていると言う感じです。

 

おとといも一人の少年が去っていきました。でも彼はまだ卒業ではなくて学年が変わる節目で去っていくのです。優秀なのでもっと高みを目指して欲しいから、私も勧めたのです。出来ればこの地域で一番の公立高校ぐらいは目指して欲しいと思っています。

玄関でいつものように、私は言います。

「じゃあ、またね。」

他の子供にとっては、三日後の「また」。でも彼にとっては、「いつかまた会う時まで」の「また」。

「あっりがとうございましたー!!」と彼らは賑やかに去っていきます。

彼は、ドアのところでもう一度、
「今までありがとうございました。」と言いなおしました。そこには7年間の重みがありました。その時明るい他の少年達の間にいたせいか、ひとりだけ去っていく少年の寂しさがふっと伝わってきたのです。

それでも私はいつものようにスマイルマークのような顔をして微笑んでいました。だけどジーンと目頭が熱くなりました。

ドアがバタンと閉まって、彼らの姿が視界から消えた瞬間、私は踝を返して、ふっとこの言葉を呟いていました。

「さよならだけが人生サ。」

 

 

 

 さよなら  さよなら
私は今日までのあなたに別れを告げます。
じゃあ、またね。
いつの日か、またあなたに出会う日も来るでしょう。
その時私は、明日からの私の知らないあなたと出会います。

 

      

春はまた来るけれど、同じ春ではないのですよね。


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