4月30日。神奈川芸術劇場にて。
「国民の映画」と、タイトルはなんとなくお気楽っぽいので、三谷氏得意のコメディかと当初は思っていたが、舞台が1941年のドイツ・ベルリンで登場人物がナチスの宣伝大臣パウル・ゲッペルスと聞けばイメージも変わってくると言うものだ。事実幕が開いてから聞こえてくるのは、「重い内容である」と言う評価がほとんどである。
但し三谷氏の舞台なので、文芸作品のように重々しくは無く、軽妙に物語りは綴られていく。そして最後には予想以上のズシリ感で心が重くなってしまったのだった。
帰り道、駅に向かう人々は皆劇場から出てきた人ばかりで、そして皆がお芝居の感想を言い合っていたのが、非常に印象的だった。
雑踏の向こうで
「ヒムラーを演じていたのは誰だっけ。」と男の人の声がした。
だけど一緒にいたのはカノジョなのか、大きな声のカレシと違って普通の声の女性だったのか、その後の声が聞こえない。
なんとなく私は
「段田さん。」と呟いてみる。
姉が、
「あの声に答えたのね。」と笑う。
「ああ『メトロポリス』、見ておくんだったわ。面白さが違ったよね。」
真後ろの女性が言ったのが耳に入ってきた。
「同感よ。私も今同じことを思っていたの。」と心の中で言ってみる。まさか振り向いて見ず知らずの女性に言うわけにはいかない。ツイッターのようにはいかないのだ。
人々は語り合いながら、心に入り込んできた『何か』を吐き出して、その『何か』の正体を見ようとしているのかもしれない。または重くなりすぎた心を話す事によって軽くしているのかもしれない。いずれにしてもこのように語られる言葉の多さこそ、演劇への評価だと思う。
前に「身毒丸」の感想を書いたときに、「演劇はまさに総合芸術」と言うコメントを頂いた。
まさにまさに、である。
この「国民の映画」と言うお芝居の中にも多数出てくる、この「総合芸術」と言う言葉。それは確かに映画にも語られる言葉だったなと思った。だけど舞台にもそれは言える。そしてこのお芝居はそれを強く感じさせるものだった。
が、もしかしたらその言葉の底辺には、今の映画に対しての苦言の思いが込められているのかも知れない、なんてことをふと思ってしまったのだった。もちろんすべての映画に向けてではない。
映画として成り立っていても、作り手に「総合芸術」の思いが無ければ、ある種のグレードに到達する事はない。
そしてその芸術の最後の重要ポイントは見る者、つまり良き観客を得る事だと、帰り道の雑踏の中で私は思ったのだった。
ナチスご用達監督のレニに、最後にゲッペルスが言い放つ。
「映画はひとりで作るわけではない。君は何も分かっていない。だから君の映画はつまらないんだ。」
党大会の映画を撮ったレニ。ベルリンオリンピックの映画を撮ったレニ。そのスクリーンの向こう側にいた者たちはどんな者たちだったのだろうか。
・・・・・・・・
ええと、・・・・・・
これはもう大阪公演も終えて、横浜が最後だったのですね。でも、「ろくでなし啄木」のようにwowowでやるかもしれませんので、ネタバレ感想は以下に書かせていただきます。ちなみに「ろくでなし啄木」は5月4日18時15分からですよ。
と言うわけでネタバレ感想を少々。
タイトルに「映画」と付いているためか、それとも三谷氏が罠をちりばめているせいか、ところどころで映画を連想してしまう。最初に思い浮かんだのは、やはり「ヒトラー最後の12日間」だろうか。この映画もwowowで見たように思う。ただ前半を見逃して後編だけだったので、深い部分までと言うより登場人物の名前も曖昧だった。ただそこに出てきた子沢山の夫婦が、彼らだったのじゃないかしらと思っていた。それならば女にだらしがなくて映画を愛するこの男と、恋の勘違いエピで笑わせてくれるどこか憎めない女の最後は・・・・
ラストで執事のフリッツが語る彼らの最後。やはり彼らはその映画の中の彼らだったのかと思った。(たぶん)
後でたくさん貰ったチラシの中に「神奈川芸術プレス」と言う新聞が入っていたことに気がついた。そこにもその映画について触れられていたが、そのインタビューの表題が「僕らとおなじ小市民が狂気に走る怖さ」。あまりに簡潔なので、もう何も言う事が出来ない。つまりこのお芝居のテーマなのだ。
ちょっと連想した映画の話に戻る。一番の三谷氏の遊びは、ヒムラーが語る自分が出る映画の構想。聖杯・ナチス・考古学・大冒険。もうあれですね。
それから、なぜか「ライフ・イズ・ビューティフル」。
このお芝居は、フリッツがユダヤ人であることがヒムラーに知られてしまうところから、ズシンと来る。今まではさながら人物紹介のようにさえ感じるのだ。
それまでは仕事がやりたくて権力に媚びていたヤニングスもツァラも、ユダヤ人排除計画を知り去っていく。潔いようにも思うが、誰も目の前のフリッツを助けるようにと懇願するものなどいない。なぜならそれをやったら同罪で、彼と同じ運命をたどってしまう事が分かっているからだ。
目の前に存在するのに、助けられない苛立ちを彼らは自分の中に封印しなければならない。故にあるものは逃げ出し、ある者は感情に蓋をする。傍から見れば感情の非常識。この欠落感はなんだろうと思わせるような異常さだ。
例えば石田ゆり子さん演じるゲッペルスの妻は、ほんの数分前までは、間々ありがちな勘違いな恋の物語で私たちを笑わせてはくれるが、非常に人間くさい。フリッツに対しても信頼が厚く頼り切っている。だがそのフリッツを失う事が分かると、さながらただ暇を取る人のように「寂しくなるわ。」と言い「ユダヤ人でもちっとも嫌な感じがしなかったもの。」と言う。
大好きだったと言えば、また死なないで欲しいと言えば心の封印は解かれ自分を守る事は出来ない。
そう言えば、小日向さん演じるゲッペルスがある時まで、とても人間くさくチャーミングなのに、ある一言でドンとそのイメージを覆す瞬間がある。
それはヒムラーがユダヤ人排除計画で、青酸カリを使った薬の開発で一度に2000人ずつ処理できると言ったときに、間髪入れずに言った相槌の言葉「素晴らしい」。
本気で言っているのか、どういう気持ちで言っているのか、思わず悩んで動揺してしまう。あれほど人間くさく魅力的であったゲッペルスが人間味を失い、続けてパーティーのメンバーからは去られ、映画の企画は挫折し、さらには自分ひとりでは映写機も動かせない惨めさを醸し出す。
フリッツがユダヤ人であることを知って雇っていたとなると、ゲッペルスたちにも害が及ぶ。が、フリッツはそんな彼らを「旦那様たちは知らなかった。」とかばうのだ。
その事に礼を言うと、同じ部屋にいるのも嫌いだったと彼は言いながら、あなた方を守るのが私の仕事だったからと言う。
「ライフ・イズ・ビューティフル」の中で、今まさにガス室に送られる年を取ったおじにナチスの女性がぶつかると、彼は礼儀正しく「大丈夫ですか。」と女性を気遣うと言うシーンがある。弱者の方が気高い、そんなシーンなどが被り。私の中でその映画を連想させたりもしたのだった。
仕方がないなと映写機を回してあげるフリッツ。いつものように講釈をたれようとするゲッペルスに
「うるさい、今日ぐらいは静かに見させてくれ。」と彼は言う。
だけどゲッペルスは顔色も変えず反論もせず言われたまま、黙って二人で静かに映画を見、映写機の回る音だけがしていた。
このラストのシーン、すごく良かった。
彼らは映画と言う芸術の前では、差別の無い平等の者達なのだった。
またも「ライフ・イズ・ビューティフル」の話だが、この映画の最後は主人公の男の子供が、「僕たち勝ったんだね。」と言うが、このお芝居の中では、誰も勝たなかった様に思う。
フリッツの言葉を借りて語られる、それぞれの人生の後日談。
フリッツは2000人の仲間と処理されてしまう。ゲッペルス夫妻はヒットラーの死後子供も巻き込んで殉死してしまう。ヒムラーもゲーリングも裁判前に服毒自殺をしてしまう。
映画関係の人たちは、輝きを失ったものもいればシブトク生きたものも、凡庸に生きた者もいて、それぞれの人生を皆生きた。
彼らの後日談を聞いていると、ふと人生そのものが映画のようだと感じてしまったのだった。
人生は幻のようだ。だけどあの瞬間だけは確かにみんな存在し、輝いていたんだ。
そんな感じのアンコールだった。