12月22日は冬至でした。
この日はかぼちゃを頂いて、ゆず湯に入ると言う楽しいイベントがあるじゃないですか。
男の人は女性と違って、イマイチかぼちゃが好きと言うほどじゃないという人多いのではないですか。何と言う回りくどい言い方。はっきり言うと、そんなに好きじゃないと言う意味です。かぼちゃにまで気を使ってアホかな、私。
少なくてもうちの夫なんかはそう。
それでいつもかぼちゃはサラダにしたりトン汁に入れたりしていたんです。ちなみにサラダと言うのはポテトの代わりにかぼちゃで作るのですが、凄く美味しいのですよ。
でも22日は、ちょっとそんなの面倒くさいし、オーソドックスに煮物を作りました。かぼちゃが良かったのか、凄く美味しかったのです。そしてみんなが美味しいと言ってあっと言う間になくなってしまいました。
煮物はダメなんだとと言うのは、私の思い込みだったようです。
そしてゆず湯。
なんて幸せな香なんでしょう。ゆずの香って、本当に本当に良い香ですよね。思わず一句詠んでしまいました。
「ゆずの香に 狂おしいほど 冬を見る」
日々の暮らしはこんなふうにささやかなブロックを積んでいく事で成り立っているのだと思います。それが幸せ色のブロックならば、一つ一つは小さいけれど、オワリの時がきて、その自分の積み上げたブロックを見直したときには、その幸せ色で染まっていたら、ちっぽけな人生でも幸せだったと言えるのではないでしょうか。
※ ※ ※
ああ、アカン。
最近、ワタクシ、ちょっとそう思っていることがあります。今この思いは、自分にとって今後の人生を決める大事な事なので、未だにぼんやりとして明確に答えが出ていない事ですが、自分の為に書いておかなくてはと思ったので書くことにします。
私のイメージでは夏の疲れを引きずって、どんどん体調が悪くなってしまったと言う感じがしていたのですが、原因はともかく入院し治療し退院しました。その時先生が言った、「完治しない病気なので、難病指定されています。」と言う言葉を、私はどれだけ軽く感じていた事か。
私のイメージは
治療→良くなる→諸々を気をつける→普通の状態。
でも実際は
治療→良くなる→諸々を気をつける→悪化していく→諸々を気をつける→悪化していく→元の木阿弥→治療→ちょっと良くなる→諸々を気をつける→悪化していく・・・以下繰り返し。
あの退院は句点でも読点でもなく、単なるスタートだったのです。
11月12月で思い知らされました。ちなみに、まだ私はその病気に指定されているわけではありません。時間を空けて再検査をすると言われていました。なので、私の予定では本当に生活に気をつけて、再検査の後は「××さん、あれは勘違いでした。」と言われる事が目標でした。
でも食生活に気をつけることなんか爪の垢ほども・・・イヤ爪の垢ほどは関係はあるけれど、そんな事は関係なく諸々の数字が入院した時のように悪くなっていきました。
ってな訳で、「ああ、アカン」とぐらいは言いたくもなるってもんでしょう。
こういう時、絶対に人は「なんで?」「どうして?」と言う気持ちになるものじゃないかと思います。いわば気持ちのステージ1。
私はこのステージ1さえもクリアしていません。
私の人生になんでそんな事が起きるのだろう。私には似合わない。この奇妙な違和感はハンパなものではないのです。
でもそろそろ認めないわけには行かなくなってきました。
そうなると気合を入れて、だけどゆっくりと最初にやっておかなければならない事があるように感じる私です。
それは自分の意識と暮らしをチェンジすること。
例えばそれは早寝早起きの健康的な生活をしましょうなんていうレベルの問題ではない事は確かな事です。
それはどういうことなんだと考えてみても、上記の「未だにぼんやりとして明確に答えが出ていない事です。」と言うのは、その部分です。とにかく、ウン十年培ってきた、自分の食生活住生活を含めた生活を全部見直さなければならないと思うのです。好奇心の方向も。
とりあえずやる事は、今までやろうとしていた事やりたかった事、行こうと思っていた場所、憧れていた場所、いつもの行動パターン、全部捨てようと思います。
世の中には「断捨離」と言う言葉が、未だに流行っていると思うのですが、此処で「捨てる」と言う言葉を使うと、さながらネガティブのようにも感じるかもしれません。
誰かとしてきた約束は反故にし、今は何処にも行きたくはない、今は何もやりたい事などない。
そう言う状態に自分を戻して暮らしを組み立てよう。
そう思えたら、少しは気持ちが楽になりました。
そして・・・
「そして」の続きはありません。何せ「ぼんやりと明確でない事」を言葉に換言しつつ、未だに気持ちステージ1をクリアしていないわけですから、こんなものでしょう。
だけど、先日自分の気持ちをメモとしてツイッターで呟いておきました。再掲させてもらいます。
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病気になると言う事は、自分を自分の牢獄に閉じ込めるようなものだ。早く元気になって、何処でもいいからどこかに行きたい。そして、私は自由だと呟いてみたい。だけどここではないどこかに思いを馳せている間はきっと自分に本当の自由はこないんだと思う。
12-24 00:35 -
「999」のテツロウは決して機械の体なんか貰わないんだ。そんな事は本を読み始めた最初から分かっている。大人になると言う事は、もう答えが出ている事を模索する振りをする事だと思う。
12-24 00:37 -
つまり「私は今」と呟き始めたこの瞬間には青い空に手をかざして「私はどうしようもなく自由だ。」と言っているシーンが想定済みである。そこに行くプロセ スだけを考えるわけで、とどのつまりは「私は今」と言ったこの瞬間には、私は私の牢獄から解き放たれて既に自由なんだと言えるのだと思う。
「ぼんやりと明確でない事」はこの文章を書き始めたときに、実は自分の中では形になり始めていたのかもしれません。なぜなら「捨てる」と言う発想は、最近までまったく無く、来年は今年出来なかった事を全部取り返してやると、私は静かに闘志さえ燃やしていたのですから。
さて白紙になった私、この先どんな風に自分の暮らしを組み替えようかなと思案中の日々です。