3月10日の今日は、午前中は地域の小学校に行く用がありました。その時に、明日は日曜日なので前日の今日、全員で黙とうをするのでよろしくお願いします、と言われました。(書いている途中で日付がまた変わると思います。)
今日は土曜日で学校は午前中のみ。ゆえに時間も8時20分とまったく違う時間です。
だけど短い時間の黙とうの時、私は胸がいっぱいになりました。
あの時ー。
あの震災を体験した人たちの前日の8時20分は、皆生きていてその日をキラキラと生きていたのです。
その翌日に何が起こるのかも知らずに。
家に帰ってから、私はその前日私は何をしていたのかしらと自分のブログなどを読み返してみました。
だけど日記ブログをやめていた私は、その前日何をしていたのかはよく分かりませんでした。
ただ、こんな短歌を作っていました。
「故郷に帰りて君に会いたいが 君は黄泉にて姿は見えず」
なぜこの歌を前日に作ったのかは分かりません。
だけど3月12日に作った歌は
「困難に一丸となって立ち向かう同じ日本の家族だから」
たった一日で日本はそんな所になってしまったのですよね。
その前日の夜、まだ継続していた映画ブログ「近未来二番館」の方に映画の感想を書きました。夜遅くに書き始めたので、いつものことながら日付をまたいで3月11日になってしまいました。
それが「ヒアアフター」。
イーストウッドの映画で冒頭に、凄まじい津波のシーンがあります。
この映画は、本当にしっとりとした良い映画だったのです。だけどこのシーンのせいで、公開中止になってしまいました。それは違うと言う発言をしている人をツイッターで何人も見かけましたが、私は「仕方がないよ、妥当だよ。」と思いました。なぜなら、その津波のシーンは本当に凄まじくリアルだったのです。
映画の映像として見るならば本当に素晴らしかったので、感想の後ろに画像を貼りました。でも3月11の夜遅くに、とんでもない事だとその記事を書いた事を思い出し、その画像を削除したのでした。
なぜ、私・・・
2月に見た映画の感想をその日に書いたのだろうかと思いましたが、分からない事です。
毎年3月11日は、昨年書いた記事の囲みを取り込んでツリーにしていました。ですが明日(3月11日)は出かけるので、そのツリーは作れません。だけどこの日は風化させてはいけない大事な日だと思っているので、昨年の記事をリンクさせてくださいね。
「僕はむしろ忘れたいんだよ。」と言った少年も、今は中学生になっています。今年、彼は何を思ってこの日を迎えているのでしょうか。
そしてやはり「2011年を生きた猫たちへ」を読むと、自分で書いたものなのに、毎回涙がこぼれるのでした。
この時期になるとニュース番組でも、あの時の悲惨な映像ばかりが流れてきて、もっとみんなで頑張って復興させた地域の魅力的なシーンや情報を流してよと言うご意見を見かけました。
確かにそうだと思います。
だけどその反面、やはり思い出し風化させまいと思うのは、とっても大事な事だと思うのです。
学校の先生が小学2年生の子供に言いました。
「この地域は、はっきり言って津波は来ませんよ。」
私は心の中で
「まあ、隕石が落ちたら来るな。」とろくでもない事を思ってしまいましたが、その後の先生の話は、意外と真面目に聞いていて、思わず頷いてしまいました。
「だけどこの先どこに住むかは分からない事じゃないの。何々さん、あなたは海辺の町にお嫁に行くかもしれないわよ。何々君だって、仕事でそう言う所に出張するかもしれないじゃない。自分には関係ない事と思ってはダメなのよ。」と彼女は言ったのでした。
2011年3月13日に書いた、その日の記録→「それでも朝はやってくる」
あの年の3月11日の前日の8時20分に私が何をしていたのかは分かりませんが、記事をを読み返していたらその当日の朝に何をしていたのかは分かりました。ブログを書いていたのでした。しかも長々と。そしてイキイキと。
それは→「1月2月を振り返って(2011)」
過去の記録は未来の為に。
そしてー。
「君去りしその場所には残像があり残香あり悲しみがある」。