3月11日は、横浜に行きました。
実家に帰る、またはラッタ君と会うなどの目的の他に、今回は「玉置浩二」のコンサートに行くと言うのもありました。
みなとみらい駅で姉と待ち合わせをし、彼の初めてのコンサートに臨んだわけですが、彼との最高の時間の感想はまた次の時に書かせていただきますね。
2時開場で、3時開演だったので、私と姉は席についてから、2時46分に二人だけで黙祷をさせていただきました。
その後で、私は姉に
「一日前にもしたのよ。」と言いました。→ 「一日前の黙とう」
そしてブログに書いてあるような事を告げたのでした。
「前の日の8時20分には、あの時震災で亡くなった人も皆生きていて、その翌日に何が起きるか分からなかったのよね。」
そう自分で言って、思わずまた胸がいっぱいになりました。それは姉も同じだったようです。
だから私たちは、今と言う時間を大切にして頑張って生きて行こうと語り合いました。
その後、姉は私に告げたのです。
「3月11日は忘れてはいけない日。だけど3月10日もそうなんだよね。その日は東京大空襲があった日で、だから前日に黙とうをしたのは正しいと思う。学校でもそれもあってしたのかと思ったよ。」
私は吃驚して、首を横に振りました。
「震災の話だけよ。」と言いながら、私はちょっと複雑な気持ちになりました。
100万人以上が罹災したと言うのに、それがいつだったのか意識の中に埋没してしまっていたのです。
風化の原則。
それは語る人が居なくなっていくー。
それに尽きるかと思いました。
だけれどそうは言っても「東京大空襲」があった事は、もちろん忘れてはいません。たとえ生まれていなくても経験をしていない事でもです。誰かが「語る」。やはりそれが大事な事なのだと、心の底からしみじみと思ったのでした。
東京は106回の空襲を受けましたが、普通「東京大空襲」と呼ばれるものは、死者10万人以上を出した1945年3月10日の下町空襲を指すー。
たしか3月10日には東京大空襲があったことを知らせる防災無線が流れていました。
それで私も忘れることなくいたのですが、
今住んでいる場所では、東京大空襲はもちろん
東日本大震災のことを知らせる防災無線は
ありません。
私自身、3月10日のことは思い出すことはなくなってしまったので、
やはり伝えてもらっていかないと年々思い出すのは難しくなってくるな、
というのkiriyさんの今回の記事で改めて思いました。
3月11日の朝、私も目覚めていつも通り朝の家事を始めようと
台所の明かりのスイッチを入れたとき、
「あの日、私も、亡くなったたくさんの人もこうやっていつもと同じように朝起きてきっとスイッチ入れたりしてたんだ」
と思ったときに1番悲しい気持ちになりました。
来年は3月10日に黙祷しようか思います。
だんだん誰も言わなくなると言うのは、怖い事なんだなと思いました。「昔、そう言う事がったんだ。」で良いから、言葉に出していかなくちゃと思ったのですが・・・。
又うっかり忘れてしまうかもしれません。
もしも来年、私は忘れていたら、そんな私を叱って下さい。「ボケるなよ。」って^^;
そして私も思いました。来年も10日と11日に黙とうをしようと。
11日の朝のお話、しみじみとしました。
お互いに今と言う時間を大切にしたいですね。