人間だけが言葉を持っているんだって、昔、学校の先生が言っていたな。
私は手を上げて
「先生、それは人間の傲慢と言うものだと思います。」と言った。先生はヤレヤレと言う顔をして
「犬や猫が喋るのは、あれは御伽噺ですよ。」と切り捨てようとした。私は食い下がる。
「だから、それが傲慢だって言っているんです。犬だって猫だって、私たちがわからない言葉で喋っているかもしれないじゃないですか。私たちには分からないだけでしょ。犬や猫だってお互いに意思の疎通をしているじゃないですか。そこに言葉があるかもと考えないほうがおかしいんじゃないですか。」
ー「アンゼルセン物語」は実話じゃないぜーとか野次を入れていた男子が、急に味方に変わる。
―そうだ、先生、決め付けちゃいけないよ~―
その先生はⅠ先生。中学の時の大好きな国語の先生だ。先生の、たった一言で終わるはずだった文法の授業の導入は、あまり上手くいかなっかたようだ。
今では犬や猫はその意思によって鳴き方を使い分け、相手に伝える手段にしているというのは、結構知られていることだ。
そういえば、Ⅰ先生はこんなことも言った。
「言葉と鳴き声は違う。」
「でも、先生。私たちの耳には、ただの鳴き声にしか聞こえない猫の声も、猫同士の耳にはもっと明確なルールがあって聞こえているかも知れないじゃないですか。意思を伝えるための音声は、その種族同士が了解しあっていれば、言葉とはいえないのかなぁ。」
Ⅰ先生はめんどくさくなって、頼み込むように私に言った。
「そうかもしれないが、お願いです。今日は文法の授業をさせてください。」
だから、先生。敵前逃亡をした先生の負けですよ。
私たちは本当にそうなのか知りもしないのに、誰かの強い意見に従って、自分で考えようとするチャンスを、山のように捨ててきている。訂正事項が出ると、大忙しで訂正作業をしている。いち早く訂正できた者が優秀だ。
でも、その訂正事項は、
―その時彼は考えた。 その時彼女は抵抗した。
その時彼らはなぜだろうと疑問に思った。―
と言う、そんな瞬間から生まれているのだ。
犬の遠吠えの連鎖、本当の猫の集会の厳かさ、カラスが夕方に一箇所に集まる様子。私は常々不思議に思っていた。
そういう不思議さを学問にしている人もいるかもしれない。又、そんな光景からあまたの夢のある物語が誕生していくのかもしれない。
それなのに、「言葉は人間だけのものだから。」なんて、「先生」というものでありながら簡単に言うもんだから、ちょっと頭にきちゃったんだよね。
でも、そんなことを手を上げて堂々と言えた昔って、いい時代だったかもしれない。
だけど先生、私はね、
何かを見てそれに意味を見出す力というのだけは、人間だけのものだと思っている。
朝日朝焼けは、毎朝見ている。朝日を前にすると、今日一日の期待に胸が膨らむ。今日何があるのかな。今日何が出来るのか。
昨日見た朝日、その前に見た朝日、太陽はいつものように昇ってくる。
だけど、今日の朝日は特別の朝日。365日の始まりの朝だから。
今年何しよう。
今年何できるかな。
だけど、先生。
人間は、知られている限りでは、言葉を使って自分たちの意思を次の世代に伝え、文明を作り上げてきた種族なんだよね。そんな「言葉」は人間だけのものと誇るなら、その言葉を駆使して、手も出さず武器も持たずに生きていく、どうしてそんなすべを学べなかったというのだろう。
-横浜に来ていますー
謹賀新年
今年もよろしくお願いいたします。