森の中の一本の木

想いを過去に飛ばしながら、今を見つめて明日を探しています。とりあえず今日はスマイル
  

東京ステーションギャラリー「佐伯祐三」展

2023-03-19 15:49:04 | お出掛け日記

―自画像としての風景―

3月17日に行って参りました。

 

なんか置いてあるフライヤーが2種類あるなと思って頂いてきました。

よく見ると、ひとつは大阪で開催のためのものでした。

まあ、とにかく私は知らない事がたくさんあり、知らなかった人も大勢いるのです。

この昭和初期に30歳で亡くなってしまった若き天才画家の存在も、この展覧会で知ったのです。

入場した入り口近くにあった、自画像の作品数点はインパクトが大きかったです。何しろこの人は、かなりハンサムな人(好みは人それぞれですが)で、それなのに誰かに貶されたかしたかで、気に入らないからと顔を塗りつぶしてしまった「立てる自画像」などは、本来ならば作者がダメだと思ったものは、失敗作なのだと認識されるようなものだと思うのですが、アートの世界ではそれは許されず、寧ろその大いなる印象の為に人の心に食い込んでいくのでした。

 

丁寧に描かれていた下落合の風景や、船の絵なども良かったけれど、やはり私が一番に惹きつけられたのは、パリに留学していた頃に、彼が自身の命を削って描いたとしか思えないような作品の数々でした。

彼の作品を見ていると、ふと「美は細部に宿る」と言う言葉を思い出しました。

だけどその「美」は彼の作品の中にではありません。

私たちが息をして暮らしているこの世界全部にそれは存在していて、本来ならば、どこを見回しても、私たちはその「美」に遭遇する事が出来る―

そんな事を彼の作品は教えてくれているような気がしたのです。

「コルドヌリ」「広告」「レストラン」・・・・

再び「フランス行きたい病」が再発したような気がしました。

 

この絵画展の説明の中に

『佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、強いショックを受けたとされる』と言うものがありました。

実はこの部分、ウキィペデイアから引用しました。有名な落してはいけないエピソードなのですね。だけど私の中では「アカデミック」と言うのは、決して悪い言葉ではないような気がして、思わずご一緒した星子さんに解説を求めてしまいました。私なんかは若い時に「アカデミックに生きる」なんて目標を立てていたくらいだったので、何か間違えていたのだろうかと驚いたのです。エピソードオンリィの書き方では、よく分からない部分だと思います。

テレビの特集で、その部分を解説していたと星子さんがいうので、いつか解説してもらおうと思っています。(忘れていなければ)

だけど家に帰ってから「アカデミック」と言う言葉を調べてみました。

それを読むと「アカデミックに生きる」と言うのは、日本語的にはカッコいいような気がするけれど、そのまま意味を当てはめるのは厳しかったんだなと思いました。つまりそれには2つの意味があって、

「1つ目が「純粋に学問的なこと」「学術的(がくじゅつてき)」という意味。
2つ目が「伝統にとらわれており新しさに欠けること」という意味です。」→ここを参照

なるほど~!!

あっ、星子さん、もう解説要らないや(笑)

 

たった6年の画家生活。

その短い期間に彼は描いて描きまくりました。

 

遺作になってしまった「黄色いレストラン」が、大阪での為のフライヤーの表紙を飾ったそれです。

 

東京バージョンは

この美術展でのコーナーの何かを読んでいたら、彼が亡くなった1928年の同じ年、娘の弥智子もパリで亡くなってしまいます。妻は子供の看病で祐三の死に立ち会えず・・・。

だけどこの若き画家の死は、かなり壮絶な最後だったと思います。

妻は同じく画家だった米子。

この人は同じ年に傷心の心で帰国します。だけどその後、1946年には女流画家協会を設立させるのでした。

 

帰りの電車の中で星子さんと、この妻目線で描いた佐伯祐三の物語が見たいわと言う話で盛り上がりました。

祐三氏を誰がやるかという事になって、星子さんが「鈴木亮平は ?」と言いました。そう言えば、彼が痩せて頬がこけると、そんな雰囲気になるなと思いましたが、なんたって30歳で死去と言う若さなので、ちょっと無理じゃないかと思いました。

「ギリギリ、松坂桃李なんかが良いんじゃないかしら。」と言うと、それで決定・・・って何の話をしているんだって(笑)

家に帰って、松坂桃李は何歳なのかと調べたら・・・・なんと、我が家のルート君と同級生ではないか。

何かショック。何がショックなのか分からないけれど、何かがショック。

 

でもまあそれはともかく、いつか、松坂桃李さん主演での「佐伯祐三物語」、もちろんタイトルはこんなにダサくないのでお願いします←誰に言ってるんだ^^

 

そして「東京ステーションギャラリー」と言ったら、やっぱりこれですよね。

 

 古の東京駅に、想いが飛びます。

 

窓の外を眺めたら、美しい駅前の風景が垣間見えていました。

 

 

 

 


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陶芸は、「体験」終わり。

2023-03-18 18:43:08 | 梢は歌う(日記)

・「あまりこまめじゃない日記」の続きで15日、16日の日記です。

 

15日の朝、

「今日陶芸体験なんだけれど、あまり楽しみとも思えず、なんだか憂鬱。」と夫に愚痴ると、

「楽しく思えないなら、止めちゃえばいいじゃん。」

「いや、そうはいかないよ。やはりやっていただいた事を考えるとね。」

 

そして出掛ける前にも、夫に

「楽しんでおいで。」と声を掛けてもらいました。

 

何がそんなに憂鬱なのかと言えば、不器用で「へたくそ」と言うのもあるけれど、何やかんやと家でやらない事があって、言うなれば宿題が終わってない。そしてこれはこれからもその宿題に追われそうだという事なんですね。この日も角皿に描く絵の下絵を描いていなくて、その日の午前中というか、出掛ける10分前くらいに走り書きで原案の絵を描いて持って行ったのでした。

 

もちろん陶芸の場所では、そんな事はおくびも出さずにいました(笑)

今は「掻き落とし」と言うのを教えてもらっているのですが、たった今、「あっ、そうだ。」とネット検索したら、図案がたくさんでてきました~。

別にその図案を使えば良かったというわけではないのですが(レベルが高すぎるし)、なんか「あっ、こういうのか。」と、少し気持ちがすっきりしました。

要するに、何事も予習復習宿題は大事なのです。

 

この新しい縁を、なんとなく月2回時間を費やせばいいのかと思って、ちゃらちゃらと体験に出掛けたことが、凄く甘かったのだなと反省している所です。

何かを新しくやろうと思ったら、しっかりと「向き合う」という事が大事なのですよね。

とこんな事を書きながら、自分を鼓舞している所です(笑)

 

削っていたら、教えていただいている方に

「それは兎か。」と言われたので

「猫ですよ。」と言ったら、「どうりで耳が短いと思った。」ですって。

「月と猫」。

まったくもう、月が出てくれば兎になってしまうのだなと思った次第。

でも後からひげを書き足しました^^

 

帰って来てから、あまり時間を空けずにバイトの時間。

この日は本当に疲れが抜けず、「相棒」が最終回なのはわかっていたけれど、その前にいったん寝てしまいました。

「相棒」の感想が遅れたのは、そんな理由です^^

 

だけど何となく、そのうち、陶芸も楽しくなってくるような予感がします。

「体験」は終わりで、今月中に道具を買いに行き、来月から本入会です。

 

(どうする、私 !?)

 

15日は、白内障の手術を受けた夫の病院も一応最後で、お休みも最後の日でした。

彼がお休みの間はやたらランチは外食し、それだけは楽しんでいたように思いました。完全リタイアの長いお休みになったら、そうはいきませんが、期間限定だったら何かそんなささやかな楽しみがあっても良いと思います。

この最後の日の水曜日だけは、お互いに忙しかったものですから、夫は冷凍チャーハンで私は朝も昼もトーストでしたが^^

お蔭で、夫が1週間家に居ても、私はノーストレスでした。

 

と、言いながら、なんだかんだと毎日お出掛けで(ランチ&買い物、または病院などで)、そっちはかなりのストレス。16日は映画に行こうかなと思っていましたが、止めて、1歩も家から出ませんでした。

それで何をやっていたのかと言うと、ひたすらゴミ捨てですね。

あとは録画消化。

おうち大好き人間なので、これはこれで幸せな一日だったのです。

 

 

下の囲みは昨年の18日に投稿したものですが、この頃は日記なるものに向き合いたい季節なのでしょうか。

 
3月16日の日記

いろいろとバタバタと生活していて、なかなかブログまで行きつけないのですが、時間のある時に心の中に何かが溜まって行かないように書いておきたいと思います。※         ......
 

 


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あまりこまめじゃない日記

2023-03-18 02:37:06 | 梢は歌う(日記)

トップ画像は、膝の上のニャンモナイトのあんずさん。(11日撮影)

日記以外の事もブログに書いているので、そういう時はこまめには日記はなどは書けないので、おまとめ日記です。

 

 【野の花マニア】、地味にやってます。今の季節は、

 

 

(10日撮影)

 【テレビに影響されやすい。】

本当はバラエティ番組は好きじゃないです。実はバス旅もお散歩番組もさほどと言う感じ。夫が見ているので、なんとなく目に入っていると言う感じです。

その割には、そこで紹介されたお店とかを思わずメモしたり、また影響されて、食べたいなと思って見たりします。

何かのお散歩番組で出演者の人が食べていて、それで急に食べたくなって来たお好み屋さん。かなり久しぶりでした。(11日)

  

 

 【黙祷をしませんでした】

その時間、ぐっすり寝ていたからです。11日は午前中にマンションのサークルのミーティングに行き、それから夫とランチ&買い物に行き、かえって来たらバタリと倒れて寝てしまったのだと思います。

2011年の翌年から、黙祷をしなかった年はなかったのではないかしら。忘れたというより寝ていたから。でも大事な事は忘れない事。時間はかなりずれてしまいましたが、忘れないと決意しつつ、ひとりでしました。

 

 【回っていない回転寿司】に行きました。(13日)

おバカさんたちのせいで、回転寿司屋さんは、いろいろと大変ですよね。

このお店もワサビしか回ってなかったです。

美味しかったので、少々食べすぎました。

 【たまには家でも作ります(^_^;)】

 日曜日、家にずっといました。なのでお昼は親子丼。自宅で作るとお肉がたくさんで、意外と食べごたえがあって美味しいのですよね。(12日)

 

 【確定申告】

必要な書類、つまり源泉徴収書が何故か違う引き出しに入っていて(実は理由は分かってる、ヤレヤレ)、その一枚の為に、朝から一人で大騒ぎさ(^_^;)(^_^;)

ある時、「この先の人生で、もう一生探し物をしない暮らしをしよう。」と決意したものの、時々やってます( ;∀;)

「大丈夫。いざとなったら、私がちゃんと時間を作って持って行くから。」と言うと

「無かったら、書類が作れない。」と夫。

この会話のかみ合わなさに、イラッとします。よく分からないかも知れませんが、私は見つかって当然だと思っていて、ただ書類作成がギリギリになってしまったらと言う話をしているのに、夫は見つからない前提のネガティブ発言。でもこれ、1行や2行では語れない話なので止めますね。

そんなこんなで何故か大事に取っておいたのに実は既にゴミだった書類などを、大量に捨てる事が出来てメデタシメデタシ。もちろん探し物は見つかりましたよ^^

見つかるのは当然。なんたって私は、間違って捨てると言う事だけはない「捨てない族」の人間なので。あー、疲れる(^_^;)

(12日)

 

 【ホワイトディー】

 

夫殿から今年も頂きました。

やっぱり「GODIVA」はお高いです。バレンタインの時、3つ買うので、私はちょっと手が出ませんでした。

「もっと安いのでいいのに。」とけち臭い事を言う私。

「たまにだから良いんだ。」と、夫。

 

大事にチマチマ頂いています^^

 

 【たまには彼女と会おう】

彼女って、再び独居老人になってしまった姑の事です。

その姑を誘って、ランチに行きました。

買い物はないというので、お昼が終わったら姑を送ってから、また自分たちの買い物に行き、ちょっとだけ休憩してからバイトに行きました。(14日)

 

日記を書くのが、意外と好きなんです。

楽しくなってきたので、また今日は更新したいかなと思います。


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相棒21 最終回スペシャル前後編「13」

2023-03-17 02:29:54 | ドラマ(相棒)

※ ドラマの感想は、あらすじは書かないけれどほぼネタバレ全開ですので、未見、または再放送時にはお気をつけて。

 

「13~死者の身代金」「13~隠された真実」の感想です。

今回前編も後編も、セリフが面白くて全編まったく飽きませんでした。。それだけ力が入っていたのかしら。

ただ前編を見た時、これは大きく風呂敷を広げて小さく畳むってやつではないかと思っていました。

骨になっても元官房長の者となれば、大きな事件です。

 

右京たちは早々と、これがゲーム感覚の子供の犯行ではないかと踏んでいましたね。

だけど「13」と言う数字の拘りの理由を知った時、なんだか私は少年たち(一人少女)が可愛そうに感じてしまいました。

クールな人たちから見れば、けっこう彼らはイッパシです。

でも実はちっぽけな小さな子供にしか私には見えず、そんな子供が親の罪を暴き、償ってもらうためにこんな事を一年がかりでやって来たのかと思うと、なんだか切ないなと思うのでした。

少年たちが円陣に寝転がって、「ああ楽しかったな。」と時を振り返るところは、良いシーンだったと思いました。

そうだろうなと私も思ったからです。

彼らの思う正義の為に、罪を犯す冒険。そのためにたくさんリサーチして、そして実行した。楽しかったよね。

少女が13歳という年齢だとと、その罪と罰について語ります。

そんなに大きく罰せられないと言いたいのでしょう。

でも君たち、違うだろって、私はそこからはちょっと違和感を感じざるを得ませんでした。

罰の大きさは違っても、罪の大きさは同じだよ。誰かの口から、たとえ盗まれたのが骨であっても、それを本当に大事に思っている人にとっては、胸が潰れるくらいの悲しみの時間であったかもしれない事を、彼らに伝えて欲しかったです。

今は100年時代って言われているじゃないですか。団塊の世代だと、その息子たちの事ばかり思ってしまう人が多いかも知れませんが、親も意外と生きてるよ~。

それが引き金で今まで元気だった人がボケたりショック死したかもしれないじゃないか。

ドラマの感想なのに、想像過多ですって !?

まあ、そうなの。分かっているんだけれど、子供使っちゃったら、やっぱり、綺麗にまとめ過ぎず、彼らが泣きじゃくるぐらい誰かに叱って欲しかったなって、ちょっと思ったものですから。

まあ、このシーンを長々語る人は、私くらいなものかも知れませんね(^_^;)

 

だけど彼らの友情の物語は良かったですよね。

「本当に試練はこれから」とまた少女が言いました。

「だけど大丈夫。俺たちがいるから。」

 

最終回スペシャルに相応しく、かなりいろいろとぶち込んで来た面白いお話だったと思います。

 

普通は、まず話題にするのは、米沢さんと神戸君の再登場でしょうか。

米沢さんは変わらない良い味出していましたし、神戸君もいい感じ。薫ちゃんも神戸君も、お互いにルックスは自分が勝ちと言っていたのも笑えましたね。

神戸君のお蔭で(実は最終回だから)、移動もヘリと派手でカッコ良かったですね。

「相棒」の世界では、動画配信サイトを「チクタク」と言うのですね。

それを知らずに「時計か」と言う内村刑事部長。思わず笑ってしまって、口を押える芹沢。

右京にとっては憎まれ口をたくさん言って、それで化けて出てきてもらいたい小野田元官房長だったのですね。

 

そしてやっぱり美和子スペシャルでしょうねぇ。

色が、、色が、、、

スペシャルすぎるって(笑)

 

 

でも私はまだ言いたい事が・・・(^_^;)

ひとつは、あの河童先生の塾ね。

ああいう私塾って良いなぁって思うんだけれど、あれってお月謝が発生してる塾なんだろうか。

不思議な塾でしたね。

もう一つは、「正義」くんのあの両親は、いったいどういう気持ちで彼にその名前を付けたのでしょうか。

キラキラ過ぎる、確かに。

でも、彼は、彼らが既に父親にヒ素を飲ませようとしていたか、飲ませていた頃に生まれたわけで、それなのに「正義」。

何を思って、その名前を付ける事が出来たのか。

見逃したのかも知れませんが、やっぱり私には理解しがたいものがありました。

 

 

「相棒21」も無事終了しましたね。

今シーズンも、お読みくださりありがとうございました。m(__)m

 


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約8年 その18

2023-03-14 02:49:44 | ランダム自分史

私がコロナのワクチンの3回目を打った日付を、サラリと言えるのは、それには理由がありました。

2022年3月11日にモデルナのワクチンを打ったのですが、その時診察してくださったお医者様が言いました。

「このワクチンの副作用が一番強く出るとしたら、明日で、明後日はケロリです。」と。

確かに翌日の12日、私は寒気と怠さに苦しんでいましたが、熱を測ると37.2ぐらいで、さして高くもなく、言うなれば、体にこもった熱に苦しんでいたように思います。

それが一日中続き、私はゴロゴロとずっと布団の中に居ました。

 

夜の9時過ぎだったでしょうか。

家の電話が、リーンとなりました。

思わず時計を見る私。

電話に出た夫が、「ああ、ハイハイ。今、横になっていますが代わりますね。」と言いました。

それで私は姉の蝶子さんからだと分かり、そして「来た!!とうとう来てしまった。」と思ったのでした。

やはり思った通りでした。

「今、スノウさんの旦那さんから連絡が来て、急変したって。今は落ち着いたからって。でも今日か明日からしい。」

「明日、行くわ。」

「横になっているって言ったけれど、大丈夫なの ?」

「大丈夫よ。単なるワクチンの副作用だから。お医者さんが言うには、明日はケロリだそうよ。その言葉を信じて、私は行くわ。」

 

2021年の10月11月、そして2022年の1月と、なんとなく通いなれて来たスノウさんの家に私たち三人は向かいました。

家に着くと、既にスノウさんはまったく意識のない状態でした。

ツレアイさんが、「耳は聞こえていると思うので、声を掛けてあげてください。」と言いました。

 

それで私は、前からずっと思っていた事を言いました。

「私たちはさ、確かにいろいろと相いれない事もあったよね。でもそれは親たちの育て方とか生まれて来たタイミングとかでさ、たまたまそうなっちゃっただけだと思うの。

次に生まれた時にはね、また姉妹になって、もうくだらないことは全部捨てて、最初から親友のように、子供の時から、一緒にいっぱいいっぱい遊ぼうね。」

私の番が終わって、「どうぞ。」と振り向くと、蝶子さんも名都さんもすでに滂沱の涙。

「もう、言う事がない。」と蝶子さんは言いましたが、それでもたぶん何か言ったと思います。

いつもなら、そういう言葉も私は逃さず聞いて、私の中に記憶として残したりするのですが、何か自分の一番言いたかった事が言えて、私はホッとしたのかも知れません。まったくその時蝶子さんが名都さんが、何を言ったのか覚えていないのです。たぶん聞いてもいなかったのかも知れません。

まだ、私には言いたい事があったのです。

 

ふたりがスノウさんの傍を離れた時、私はまた彼女に話しかけました。たぶん彼女がずっと聞きたかったと思われるその言葉を私は言いました。

「スノウさん、お父さんはね、あなたの事を一番綺麗な娘だと思っていて、とっても自慢に思っていたよ。
スノウさん、お母さんはね、あなたの事を一番強く想っていたよ。そして一番の自慢の娘だったよ。

スノウさん、二人はね、あなたの事を凄く凄く愛していたよ。」

そして、もう言うべき事もなくなった私は、

「良い子だね、あなたは本当に良い子だね。」と、彼女の頭を撫ぜていました。

 

ある時、実家にて名都さんとスノウさんは私の枕もとで飲んでいました。酔っぱらった二人の声が大きくて、彼女たちが眠りにつくまで家中が眠られず、ずっと経ってから、スノウさんに義兄には、謝っておいた方が良いと言った事があるのです。ああ、あの話ねと、中には分かって下さった方もいらっしゃるかもしれませんが、寝たふりしながら聞いていたあの二人の酔っぱらいの話を、私は忘れたことはなかったのです。

 

この日、義兄が母の事も連れてきてくれていました。

最後に母も連れてくる事が出来て良かったと思いました。その母が帰る時に、皆も一緒にと言う雰囲気にちょっとだけなりましたが、

私がまだ帰らないと言うと、義兄が

「お父さんの時と同じような気がするの?」と聞きました。

「うん。」と私は頷きました。蝶子さんも名都さんも帰りませんでした。

 

ワクチンの副作用は、翌日が一番ひどくて、その翌日はケロリと言いましたが、それでも私は少々疲れてしまいました。

みんながスノウさんの周りにいた時、ひとりちょっとだけ離れた椅子に座っていました。

この時スノウさんの息は、痰がのせいかちょっとゼイゼイしていました。何とか少しでも楽にならないかとみんなで努力をしていたのです。その時、名都さんが

「泣いている。」と言いました。

えっ、と思って立ち上がりかけたけれど、なんだか切なくなって、また座ってしまいました。

だけど、また名都さんが「息をしていない。」と言った時は、さすがにベッドの所に飛んでいきました。

 

この時、名都さんが「心臓マッサージ!」と言い、私が「しないのよ。」と言った話は別に書きました。

 

あまりにもあっけない最後の様子に、皆が眠っただけではないのかと思ったほどです。

するとツレアイさんが、スノウさんの肩をポンポンと叩いて

「ママちゃん、ママちゃん」と呼びかけました。

だけど私は手を取って脈を探し、そして首筋を触って、やはり波打っていないか探してみました。

「悲しいけどさ、やっぱり脈ないよ。それにさっきまで部屋中に聞えていた息の音が、今は全くしないもの。」と私は言いました。

この時、私はスノウさんの頬に残っていた涙のあとを見て驚きました。脳の腫瘍の為に、右目はかなり前から潰れてしまっていたのです。涙はその右目から出ていたのです。

かなり後から思い出したのですが、人が死んでいく時には、体の悪い所がすべて治っていくと、真実は知らない事ですが聞いたことがあるのです。もしかしたらその右目の涙は、目が治ったという知らせだったのでしょうか。ただ私には、その時は、スノウさんからの「ありがとう、さようなら」のメッセージに感じたのでした。

 

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と名都さんが、泣いていました。それまで気丈だった娘ちゃんもベッドに顔を埋めて泣きだしました。

「いきなり来たなぁ…!」とツレアイさんは、その驚きの方に戸惑っていたように感じました。それに彼に泣いている暇など無かったのです。

お医者様にさっそく連絡してきて頂かなくてはならないからです。

それにそれが終わったら、葬儀社に手配を考えなくてはならないのです。

バタバタと動き出しました。

泣き虫kiriyはこの時、号泣してたかと言うと、まったく泣きません。その時泣いているように見えたら、みんなが泣いていてなんとなくバツが悪いので泣いているように見せているウソ泣きです。私は別れや悲しみに鈍感な人で、そういう感情は、一旦波が静かに引いて行き、そして後から後から押し寄せて来るのに似ています。

 

お医者さんが来るまで、ツレアイさんがぼそぼそと語りました。

「介護する時、着替えさせたり体を拭いたりで、顔の距離がどうしたって近くなるじゃない。その時、彼女が『パパさん、ハンサムだね。』って言うからさ、『そうだろぅ』って言ったんだ。」

「良い話だね。」と私が言うと、

「うん、それをよすがに生きていこうと思う。」と彼はまた言いました。

ジーンとしました。

 

そうこうしているうちに若いホームドクターがやってきました。若いと言っても40代後半ぐらいだと思います。

「皆さん、お会いする事が出来たんですね、良かったと思います。昨晩急変した時に、旦那さんが焦って救急車を呼んでしまっては、皆さんは会ってお別れする事が出来ませんでしたよ。」とその方は言いました。

死亡診断をするのに、邪魔なのでやはり隣の部屋で座っていました。

そのドクターは、ツレアイさんがこちらの部屋に来ても、まだ一人スノウさんの横に立っていてカルテを見ていました。

そして静かに横たわる彼女に話しかけました。

「3月4日で61歳になる事が出来たんですね。良かったですね。」と。

その言葉が聞こえて来て、私は思わず振り向いてドクターの背中を見ていました。

すると彼は、

「約8年、お疲れさまでした。」と優しく声を掛け一礼をしたのです。

 

私は思わず立ち上がり、彼が帰っていくまで座らず

「どうもありがとうございました。」と深くこうべを垂れました。

 

 

「約8年」は妹の闘病の記録と言うよりは、私の人生の中での大きな出会いと別れのお話です。

昨日から書き始めたのに、結局は日にちを跨いでしまいました。昨日が、スノウさんの命日だったのです。

私はこの記事を1年かけて書きました。

計算していたわけではなく、掛かってしまったのです。

だから私にとっては「約9年」の物語・・・。

 

スノウさんの本当の名前は「ユキエ」と言うのですよ。

「ゆきちゃん」、本当はこの名前の方がずっとずっと可愛らしかったですね。

だけどこの「ゆき」は「雪」ではなくて、「幸」で「え」は「枝」なんです。

彼女の幸せな枝に、多くの人が小鳥になって止まった事でしょう。

もうゆきちゃんは、この地上には居ません。

その枝に止まった小鳥たちのたくさんの想い出の中と、そして心の中にしか。

 

 

「約8年」を今までお読みいただけて、ありがとうございます。

想い出は先に書いたように枯れる事のない泉のようなもので、尽きる事もないのですが、ゆきちゃんとの出会いと別れの物語は、これにて終わりです。

繰り返しではありますが、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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約8年 その17

2023-03-13 09:05:28 | ランダム自分史

約8年 その15

約8年 その16の続きです。

 

スノウさんとの思い出を語りだせば、なんたって付き合いも長いわけですから、たくさんあるのです。

先日は夫とお好み焼きを食べに行きましたが、その時も、スノウさんが浅草でも世田谷のお店でも焼いてくれたなと思いだし、しみじみとしてしまいました。

彼女との「ポーの一族」の話などは、本当は語りたいところです。

ですが、想い出は溢れる泉のようなものなので、いつかまた聞いてくださる時が来ればいいなと思います。

 

だけど、このお話だけはしたいと思っているものがあるのです。大した話ではありません。

きっとスノウさんが生きていてこの話をしても、「そんな事があったかしら。」と言ったと思います。

 

「花ちゃんはライバルだから」と言ったスノウさん。

確かに学校の成績は勝ってたよ。

次女だからね、家族への貢献度も高く発言権も強かったかも。

だけど最初からいろんなところで負けてたんだ。

 

今では、夜はすっかりとドラマタイムですが、昔は夜の散歩が好きでした。

昔とはどのくらい前かと言うと、独身の頃からです。あれは高校生だったか大学生の頃、夜になると様々な想いが心の中で暴れ出す事がありました。

そんな時、その苦しさから逃れたくて、夜の道をただ歩いていました。

今思うと、かなり危ない行動だと思います。

しかも、その頃の私の好きな場所は、歩道橋の上だったのですから。

これも今思うと、かなり迷惑な行為だったかもしれません。

深夜ではなくても、歩道橋の上から若い女性が下を見下ろしているのですよ。

ドキリとしたドライバーの方もいらしたかもしれませんね。

だけどその頃の私は何も考えずに、来る車行く車の白と赤のライトを、ぼんやりと眺めているのが好きだったのです。

と、そこに向こうから青年を2人引き連れている女の子がやって来るのが見えました。

青年たちを両脇にやって来るその子は、まるで若き女王に見えました。

「あれはさ・・・」

「でも私はさ・・・」

と風に乗って声がチラチラと聞こえてきました。

 

私は歩道橋の上から

「スノウさん、やるなぁ。」と見ていました。

そう、その女の子はスノウさんだったのです。彼女だと分かっても、私は歩道橋を走って降りていくなんて事はしませんでした。なぜなら一緒にいた青年たちに、少々驚いていたからです。

かつて中学の生徒会の執行部にいた先輩たちで、彼らは私の目から見たら、いつもキラキラしていました。

その頃からジャニーズ張りのイケメンで、頭も良くて医者の息子である男子を中心に、顔はちょっと濃くて、だけどいろいろな事に興味を持ち実行する人と、メチャクチャ頭が良くて、確かに眼鏡くんではあったけれど、早稲田に合格したものの、それは繋ぎで、翌年には東大に入っていったと噂があった人。その時医者の息子はいなかったかもしれませんが、それでも私にとっては高根の花を、しかも引き連れたように歩いてきたのだから、「凄いな」と思わざるを得ません。

その頃は「花より男子」などと言う漫画はなかったわけですが、私はその頃の漫画の何か(忘れてしまった(^_^;))を連想しました。木原敏江だったか一条ゆかりだったか !?

学校の一番目立つグループと普通の少女の絡みと言うのは、少女漫画の定番なのですよね。

家に帰ってからスノウさんに、その事を言うと、

「へぇ、あの人たちが ? あー、確かに頭は良いかもね。」と気のない返事。

 

スノウさんは、この先の人生でも、彼女のツレアイからも

「彼女、人脈、広くて凄いからね。」と言われるような友好関係があったようです。

 

だけど私の目から見たら、中学生時代は自分で演劇部などを作り、文化祭などで自作のお芝居を演じそれなりに好評だったようですが、友達などそれほど豊かではなく、寂しい人間関係に見えていたのです。それと言うのも、かつての学校という組織がそれを思わせたように思うのです。あまり勉強に熱心でない生徒を、無視し排除し押しつぶそうとする能力のない教師が昔は紛れていました(きっぱり!)。そんな者に、彼女は苦しめられた時代があったと、私は思っています。

だけど人には良い出会いと言うものがたくさんあると思いますが、その出会いと言うのは人とばかりではなく、ある種の組織、つまり何かのサークルなどと言うものもあるような気がします。

彼女は、ある時から、子供会や何かそういうグループの集まりの時に、ゲームや遊びを提供して楽しませるというボランティアに参加したのです。

先に書いた、キラキラ男子先輩たちともそこで知り合ったみたいです。

ある時、近所の公園で子供会の集まりがあり、それをスノウさんたちがそのイベントを進めるのだと聞いて、応援の意味を込めて蝶子さんと見学に行きました。実は心配だったのです。

ところが、多数の小学生の輪の中心になって、スノウさんは大きなハリのある声で

「みなさーん、今日は・・・・」とゲーム進行をしていました。

そのイキイキとした姿を見て、私は驚き蝶子さんと顔を見合わせてしまいました。

 

「スノウさん、凄いね。いつからあんなことが出来るようになったのかしら。」

そこに居たのは、私の知っている寂し気でちょっとさえないスノウさんではなかったからでした。

 

中学生時代は、その「寂し気な」と言う印象も、それは私の思い込みだったのかも知れません。それとも後に彼女は変わっていったのか。

ある時、母が言いました。

近所のスノウさんの同級生のお母さんからお礼を言われたのだそうです。

「心配して出掛けて行った娘が『楽しかった~。次も楽しみ。スノウさんのお蔭』と言っていたのですよ。」と。

ある時から、スノウさんの中学校の同級生は、数年に一回、クラス会を開くようになったのです。

この時、なんとなく遠慮して距離のある人も巻き込んで、みんなが「楽しかった」と言う場所を作ったのは、彼女のホステス気質がかなり貢献したと思います。

 

 

アーア、生きてるうちにもっと褒めてあげれば良かったなと、私は思いますよ。

でもね、きっと

「でしょう~。」と言う得意げな顔で、彼女は言ったと思います。

ふーんだ。やっぱり褒めなくて良かった(笑)

大丈夫。きっと他の人にいっぱい褒められていたと思うから。

 

 

 

 


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「それを知りたいんです。」と少女は言いました。

2023-03-11 22:46:23 | 梢は歌う(日記)

「3.11」から12年。

すると、今、中学1年生だった少女が、2011年だった頃は乳飲み子だったのです。

もちろん何の記憶もありません。その子の父と母が、「あの時はね。」とその時の体験を語らない限り、既に「3.11」は遠い出来事になってしまうのだと思います。

ある少女が語った「あの時」。

「みんなで出掛けようとしたその時、私がですね、アレをしちゃったんですよ。

『なんだよぅ、今かよぅ。』とオシメを変え終わった時に、地震が来て、もちろんその日のお出掛けは無しで、出掛ける前で良かったとなったんです。みんなを救ったのが、私のアレです。」

面白おかしく話してくれたけれど、それはその家族のある種の歴史ですよね。

みんなあの日は、それぞれの歴史を紡いだのではないでしょうか。

「でも私、」と少女は続けて言いました。

「津波の映像を見たいんです。」

「えっ!?」

ちょっと驚きました。そんな言葉が出てくるとは思ってもみなかったからです。

その時、私は別の事が、頭に浮かびました。

あの時に、小学1年生だった子供。しばらくはちょっとしたスマホの音にも過敏に反応して、3.11のトラウマに震えていました。あの経験は、被災地でなくても大きな心の負担を、子供たちに与えたと思います。

「かなり恐ろしいよ、それ。」と私は言いました。

「でもそれを私は知りたいんです。」と少女は言いました。

 

確かに、あの時に傷ついた人たちへの配慮で、その映像はあまり流されることはなくなってしまったかも知れません。

ドラマなどでも、そのシーンは省かれて作られたりすることも多いと思います。

実は私も、そういう作り方にホッとする方です。

少女の「知りたい」は、単なる津波への好奇心かもしれません。

だけどその好奇心は、そんなには軽いものではないような気もしたのです。

風化させずに伝えていかなければと言っても、どのようにかと言うのは、これからの課題にもなっていくことなのではと思いました。

 

下の囲みは昨年の3月11日に投稿したものです。

その記事を辿っていくと、私は「2011年を生きた猫たちへ」

を読んで、毎年泣くことになっているらしいので、また読み直して・・・・やっぱり泣きました。

 

 

 
出来なかったけれど、やったんだ。

 あれから10年こんばんは。私は猫のももです。私は2011年の5月にママの家にやってきました。「こんな時に、新しい家族を迎えるのはどうなんだろうか。」と、ちょ......
 

 

 

※ 「トルコ・シリア地震」の募金を、生協を通じてやっと出来てホッとしました。

また、今年も、Yahooが「検索はチカラになる」をやってくれています。自分ではあれやこれやと出来ないので、これを毎年やってくれて、感謝しています。

https://www.search311.jp/?cpt_n=yj_startpage&cpt_m=pcweb&cpt_s=searchbox&cpt_c=lp_top&fr=sf311_l_st_pcsearchbox


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3月10日は。

2023-03-10 22:17:08 | 梢は歌う(日記)

今日は暖かく、散歩日和でしたね。
私はお散歩ではなく、午前中は整形外科に行き、ヒアルロン酸の注射を膝に打ってきました。
その後は、仕事をお休みしている夫と待ち合わせをして、ランチ。

 

ずっと目の回復について、実況のように語りっぱなしの夫の話にも少々飽きて・・・・と、言う事は内緒ですよ^^

歩くスピードが違うので、帰りはひとりでのんびりと我が町の花を楽しみながら帰ってきました。

トップの画像はハクモクレンじゃないかと思います。

遠めに見た時、あまりにも花が付いていて、何の花か分かりませんでした。

夕方には歯医者。歯欠BBAではなくなりました(^_^;)

そして又遠回りして、町の中のお花見をしながら帰って来て、一応6000歩は歩きました。

これから、好きなドラマを見る予定です。

何となく平和な一日です。

 

ところで下の囲みは、昨年の3月10日に投稿したものです。

私は、ある時3月11日の事を姉と話していた時に、義兄に

「3月10日だって、忘れてはいけない日だ。」と言われてから、「東京大空襲」だったこの日も忘れないようにしているのです。

 

 
3月10日だって、忘れないよ。
今の私の悩みは、図書館で借りた580ページもある本が、返却期限が1週間後と迫っているのに、まだ100ページしか読んでいなくて読み切れるのかという事なのです。もっと深刻な悩みが......
 



だけどこの日を意識するのは、それは「かつてあった悲劇の日の記念日」だからだけではないと思います。
過去から、私たちは多くの事を学び未来へと活かしていかなければ、歴史を学ぶ意味がないのです。
愚かだった歴史。

日本の首都が戦場になり、女・子供や老人が逃げまどい、ただ殺されて行った東京大空襲。

そんな悲劇を導いてしまった歴史を、愚かだったと言って、どこも間違えていないと私は思います。

そして風化させてしまっては、何の意味も無くなってなくなってしまうと思います。

その戦争を体験した人が、どんどん居なくなっています。

戦争を知らない子供が大人になって、政治家にもなっています。この人たちに過去から、ちゃんと学ぶべきことを学んでいて欲しいと心から願っています。

また下の囲みは昨年の3月1日に投稿したものです。

この記事を書いていた私は、本当に甘かったと思いました。

その戦争は、いまだに続いているんですよ。

早く早く一刻も早く、その戦争が終わりますようにと祈ります。

 

その記事内に書いた一部を抜粋再掲させていただきました。

 

 

 
この種をポケットに
テレビでも取り上げられていたので、その映像を目にした人多いかと思います。一応一番下に貼っておきます。(いつまで見られるかの保証はありませんが。)ウクライナの女性がロシ......
 




こんな言葉が浮かんできました。

― お母さん、僕はいまウクライナに居ます。

訓練だと思っていたのに、本当の戦争だった。市民は撃たないと言ったのに、今は子供さえ殺してる。

ファシストだとののしられて、僕は辛いです。今日、僕は女の人にヒマワリの種を貰いました。それは抗議の言葉と行為だったけれど、僕には返す言葉も持っていなくて、手を出してその種を貰いました。ちょっと笑えるのは、その人が入れろと言ったのに、僕がその種をポケットに入れたら、驚いた顔をしたのだよ。早く出て行けと大きな声で言った後、その人は小さな声で「あんたも死ぬんじゃないよ。」と言ったんだ。

だけどお母さん、もしも僕が家に帰る事がなかったら、いつかこの国に来て僕の花を探してください。

僕はその花の下で眠っています。

朝、あなたが入れた珈琲を飲みながら、今日は何をしようかななんて事をぼんやり考えていた、いつかの朝の夢を見ながら。ー


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マスクを忘れた~!!

2023-03-10 02:21:48 | 梢は歌う(日記)

「ニャンですか~? イイたいこと、あれば、きいてあげるニャ~。」と冷蔵庫上のあんずさん。

 

そうですか。じゃあって、あんずさんに語るわけでもないのですが、

 

実は今日、夫殿が白内障の手術だったのですよ。

予定では手術が終わった頃に、ルート君と一緒に迎えに行って、かいがいしく

「あなたはここに座ってて。お会計をしてくるからね。」

薬局に行っても、

「パパは車の中で待ってて。ママが薬を貰ってくるからね。」みたいなイメージ。

病気なんかの時、そのぐらい家族には親切にしてもらいたいものですよね。

でも、まあ、タイトル通りです。

 

そうすると、私が事前に抱いてイメージは全て無しです。

病院に入って行けませんからね。

ルート君にお金を渡して届けてもらいました。

もう、私、来る必要なかった・・・・・(/_;)

駐車場で待っていた時にラインを送りました。

「マスク忘れた !!

ルート君が行くから。封筒の中にお金が入っているから。」と。

 

その時返って来た夫殿のスタンプ

思わず返したスタンプ

 

病院に向かう車の中で、

「私はいったい何しに来たんだって言われちゃうよね。」

実は数日前からマックが食べたくなり、ドライブスルーで昼食調達をして帰る予定でした。

「結局、マックに買い物しに来た人って事になっちゃうね。」

「だな。」とクールなルート君なのでした。

 

結局、マックに買い物しに来た人のランチ。

時々無性に食べたくなる・・・・マック。

 


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陶芸体験に行ってきました。

2023-03-09 08:45:01 | 梢は歌う(日記)

3月8日のマイ日記。私自身の悲しい出来事があれば、嬉しい出来事もあって、そんなこんなで終わっていく一日。

言葉に拘るならば、「悲報・朗報」と書いてありますが、あくまでも自分に向けてのものです^^

【悲報】

朝、また治してあった歯が取れました。(「疲れた~!」と言っても良いですよね。

3月1日に治して、1週間しか持たなかった(ノД`)・゜・。

でも、まっ、いいか。

1周忌をクリアしたんだから^^

【朗報】

同じく同じ日の3月1日にかけたパーマを、友達がとっても褒めてくれました。♡♡♡

「少女漫画の主人公みたい。」

いやいや、それは褒めすぎだって。マスク外したら・・・・・歯欠けBBA (T_T)

でも、まっ、いいか。

治るまで人前ではマスク外さないから。マスク文化よ、ありがとう。(と、言っておきましょう。)

【悲報】

今日も「陶芸体験」に行きました。

なんか落ち込みました。

なんか、こう、分かっていたけれど、私って、作業が遅い !!

そして美しくない、諸々が。

なんでみんな、テキパキとそして美しく出来るの。

 あのね、私、こう見えても、小学校の図画工作とか中学校の美術とかの成績は「5」か「4」だったんですよ。

でも、小学6年生の時、先生が言ったんです。

「霧島さんは、絵は上手だけれど(その当時限定)、工作はダメだねぇ。」って。

あー、はいはい。

まさにその通りですよ。

ずっと忘れられません、その言葉。

当たっているだけに(^_^;)

 

【朗報】

「今日さ、陶芸教室に行ったんだけどね。」と私は夫殿に愚痴ります。

「あなたは知っていると思うけれど、私って不器用じゃん。なんか落ち込んだわ。でも、まあ、出来上がって家に持ってきてしまえば、比較するものがないからそれなりに思えるから良いんだ。(すでに言い訳)」

すると夫殿が言いました。

「上手い下手なんかどうでも良いじゃないの。いずれにしたって、それは唯一無二のものなんだから。」

「・・・♪」

 

 

・「2月の暮らし☆2023」の記事の中で

>『◎ そう言えば、画像は撮る余裕がなかったのでないのですが、「陶芸教室体験」はずっと休んでいましたが、恐る恐る復活しました。

釉薬体験も楽しかったです。きっと近々へたくそな(自覚あり)1作目の作品を、(無理やり)お見せする日も来ると思います。』

と書きました。

トップ画像は、その無理やりお見せしている1作品目です。

それからこれ。

 

初めてだったので、先生の手取り足取りです。花瓶などは、ほとんど私の手元に来なくて、後ろに名前を書いてと言われた時、凄い抵抗感があって、うっかり(でもなかったが)書かずに帰ってしまいました。

だけど出来上がったものを見た時、やっぱり自分の作品だなと感じました。

葉っぱの周りをこんなにギザギザと切っている人もいなかったし、花瓶の模様や口のところ、全部自分の意思だったからです。「ここはこうしたいです。」「側面はこういうイメージで・・」

先生は凄く良い人で・・・・

じゃなかったら、嫌われていたかも(^_^;)

「この、口だけ女め」って(^_^;)

また釉薬も奥が深いなと思いました。

 

まだ「体験」の段階なのですが、既に「新しい人たち」と呼ばれ、入会前提になっていました。

でもこれを見たら、「もう、満足しました。ありがとう。さようなら。」なんて、絶対に言えませんよね。

「ああ、ああ」と嘆きながら、しばらくはユルユルとやっていこうと思います。

 


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