中央区は、今、まちが壊れつつある。歴史と伝統、風格がありかつ耐震性は十分確保されうる歌舞伎座や一世紀近くを経た小学校(明石小、中央小、明正小)が取り壊され、築地市場が日本最大級の土壌汚染のある豊洲へ移転が計画され、一方、街並みを無視して、地域に過大な負担をかける超高層のビルが乱立し、地域の絆やコミュニティが失われつつある。
地方分権とはいえども、財源の多くは、東京都から依存し、例えば、要らない高速道の延伸計画や一度は地下で作る都市計画決定されていたはずの道路(環状二号線)が地上で作る都市計画決定の変更がなされるなど、東京都の横暴に対しては、なすすべもない存在である。だが、都心区であるという地の利のもと、周辺区よりは、一見、課題の少ない区のように見える。区民の意識・見識は高く、日本の優良企業の本社や支社も多い。
凪の日にこそ、時化(しけ)のことを想わねばならない。
区民が、商業、物流業、サービス業、ボランティア活動その他いっさいの人間の営みにおいて、各自が安心して仕事・活動に従事できるように、やればやるだけその成果が返ってくるような勇気づける施策はもっととりうる。町会・自治会活動など地域に貢献し、なんとかして中央区を繁栄させたいと願う方々を高く評価するしくみがあってしかるべきである。商業観光まつり、福祉健康フェスティバル、大江戸祭り・東京湾大華火祭、中央区まるごとミュージアムなどなど、一年の適当な時期に、祭りや催し物が多く開催され、区民が楽しめるようになっていることはよい。多くが受身ではなく、自らがその祭りを作る側として参加する手法をとりいれていけばなおよいと考える。中央区には、職業組合や地区組織が多く存在しており、それぞれの集団の人々を考慮に入れ、折にふれて会合をもち、もっと積極的に意見交換をしていく必要もあろう。
中央区にはどのような政治的リーダーが待ち望まれるか。
まず、マキアヴェリの分析で、人間の本質をみてみたい。欲得については、そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものという。信義については、人間は、邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたのほうも、他人に信義を守る必要はないという。そして、大衆の性質として、手にとってふれるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。大衆は、つねに外見だけをみて、また出来事の結果によって、判断してしまうものである。世の中にいるのは大衆ばかりであり、大多数の人がよりどころを持ってしまえば、少数のものがそこに割り込む余地はない。
人間の悪い一面をかなり強調している感をうけながらも、そういう人間を相手にするリーダーは、第一に、節約心をもたねばならない。その節約心で歳入が足りて、区民に負担をかけずに各事業を行っていくことが求められる。第二に、思慮と人間味をもって落ち着いてことを運ばなくてはならない。時には戦いに勝たねばならないときがある。戦いに勝つには、法律と力が必要であり、前者は人間本来のもので、後者は獣である。多くの場合、前者だけでは不十分であって、後者の助けを借りなくてはならない。野獣の気性とは、狐のように罠を見抜く力とライオンのように狼どもの度肝を抜く力である。第三に、慈悲深く、信義に厚く、裏表なく、人間味にあふれ、宗教心のあつい人物になれるように心を配らねばならない。
リーダーは、その街を歩いてよく地形を知り、また歴史書にあたり学ぶ必要がある。人間の頭には、三つの種類がある。第一は、自分が独力で考えをめぐらせるもの、第二は、他人に考えさせて、よしあしを判断するもの、第三に、自分の考えも働かず、他人にも考えさせないもの。第三の頭脳は役立たないが、第一も難しいものであり、一人のリーダーの考えでは、限界があろう。リーダーの傍らには、秘書官の役割を担ってもらえるものを選ぶ必要が出てくる。
かといって、複数の人の意見を徴していると、結果、まとまった助言が得られないこともあろう。その上、助言者は、それぞれ私利私欲を考えるだろうから、彼らの意見をどう修正し、どう受け入れていいかわからなくなる。まわりの助言から、リーダーの思慮が生まれてはならない。結局、だれから立派な進言を得たとしても、よい意見はリーダーの思慮からうまれるものでなければならない。
もともと、この世のことは、運命の支配にまかされているのであって、たとえ人間がどんなに思慮を働かせても、この世の進路をなおすことはできない。宿命のままに、身を任すのがよいことになる。とりわけ、現代は、人間の思惑のまったくはずれる世相の激変を、日夜、見せ付けられているから、よりいっそうこの見解は受け入れやすい。しかしながら、われわれ人間の自由意志は奪われてはならないもので、かりに運命が人間活動の半分を、思いのままに裁定しえたとしても、少なくともあとの半分か、半分近くは、運命がわれわれの支配に任せているとみるのが本当だと、マキアヴェリは説く。
時代や状況の変化に賢明に即応できる人間はなかなかいない。その理由は、人間はもって生まれた性質に傾いて、そこから離れられないからであり、もうひとつは、ある道を進んで繁栄を味わった人は、どうしてもその道から離れる気がしないからである。用意周到な人が、いざ果敢に振舞う時勢になると、腕をこまねいて、どうしていいか分からずに、結局破滅してしまう。マキアヴェリは、人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよいと助言している。「絶望的なまでの現実に対して、それでも旺盛なるビウィルトウをもって立ち向かう覚悟」(ビウィルトウとは、勇気・気概・技量などを意味する。)が、今、中央区に求められている。
地方分権とはいえども、財源の多くは、東京都から依存し、例えば、要らない高速道の延伸計画や一度は地下で作る都市計画決定されていたはずの道路(環状二号線)が地上で作る都市計画決定の変更がなされるなど、東京都の横暴に対しては、なすすべもない存在である。だが、都心区であるという地の利のもと、周辺区よりは、一見、課題の少ない区のように見える。区民の意識・見識は高く、日本の優良企業の本社や支社も多い。
凪の日にこそ、時化(しけ)のことを想わねばならない。
区民が、商業、物流業、サービス業、ボランティア活動その他いっさいの人間の営みにおいて、各自が安心して仕事・活動に従事できるように、やればやるだけその成果が返ってくるような勇気づける施策はもっととりうる。町会・自治会活動など地域に貢献し、なんとかして中央区を繁栄させたいと願う方々を高く評価するしくみがあってしかるべきである。商業観光まつり、福祉健康フェスティバル、大江戸祭り・東京湾大華火祭、中央区まるごとミュージアムなどなど、一年の適当な時期に、祭りや催し物が多く開催され、区民が楽しめるようになっていることはよい。多くが受身ではなく、自らがその祭りを作る側として参加する手法をとりいれていけばなおよいと考える。中央区には、職業組合や地区組織が多く存在しており、それぞれの集団の人々を考慮に入れ、折にふれて会合をもち、もっと積極的に意見交換をしていく必要もあろう。
中央区にはどのような政治的リーダーが待ち望まれるか。
まず、マキアヴェリの分析で、人間の本質をみてみたい。欲得については、そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものという。信義については、人間は、邪悪なもので、あなたへの約束を忠実に守るものでもないから、あなたのほうも、他人に信義を守る必要はないという。そして、大衆の性質として、手にとってふれるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。大衆は、つねに外見だけをみて、また出来事の結果によって、判断してしまうものである。世の中にいるのは大衆ばかりであり、大多数の人がよりどころを持ってしまえば、少数のものがそこに割り込む余地はない。
人間の悪い一面をかなり強調している感をうけながらも、そういう人間を相手にするリーダーは、第一に、節約心をもたねばならない。その節約心で歳入が足りて、区民に負担をかけずに各事業を行っていくことが求められる。第二に、思慮と人間味をもって落ち着いてことを運ばなくてはならない。時には戦いに勝たねばならないときがある。戦いに勝つには、法律と力が必要であり、前者は人間本来のもので、後者は獣である。多くの場合、前者だけでは不十分であって、後者の助けを借りなくてはならない。野獣の気性とは、狐のように罠を見抜く力とライオンのように狼どもの度肝を抜く力である。第三に、慈悲深く、信義に厚く、裏表なく、人間味にあふれ、宗教心のあつい人物になれるように心を配らねばならない。
リーダーは、その街を歩いてよく地形を知り、また歴史書にあたり学ぶ必要がある。人間の頭には、三つの種類がある。第一は、自分が独力で考えをめぐらせるもの、第二は、他人に考えさせて、よしあしを判断するもの、第三に、自分の考えも働かず、他人にも考えさせないもの。第三の頭脳は役立たないが、第一も難しいものであり、一人のリーダーの考えでは、限界があろう。リーダーの傍らには、秘書官の役割を担ってもらえるものを選ぶ必要が出てくる。
かといって、複数の人の意見を徴していると、結果、まとまった助言が得られないこともあろう。その上、助言者は、それぞれ私利私欲を考えるだろうから、彼らの意見をどう修正し、どう受け入れていいかわからなくなる。まわりの助言から、リーダーの思慮が生まれてはならない。結局、だれから立派な進言を得たとしても、よい意見はリーダーの思慮からうまれるものでなければならない。
もともと、この世のことは、運命の支配にまかされているのであって、たとえ人間がどんなに思慮を働かせても、この世の進路をなおすことはできない。宿命のままに、身を任すのがよいことになる。とりわけ、現代は、人間の思惑のまったくはずれる世相の激変を、日夜、見せ付けられているから、よりいっそうこの見解は受け入れやすい。しかしながら、われわれ人間の自由意志は奪われてはならないもので、かりに運命が人間活動の半分を、思いのままに裁定しえたとしても、少なくともあとの半分か、半分近くは、運命がわれわれの支配に任せているとみるのが本当だと、マキアヴェリは説く。
時代や状況の変化に賢明に即応できる人間はなかなかいない。その理由は、人間はもって生まれた性質に傾いて、そこから離れられないからであり、もうひとつは、ある道を進んで繁栄を味わった人は、どうしてもその道から離れる気がしないからである。用意周到な人が、いざ果敢に振舞う時勢になると、腕をこまねいて、どうしていいか分からずに、結局破滅してしまう。マキアヴェリは、人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進むほうがよいと助言している。「絶望的なまでの現実に対して、それでも旺盛なるビウィルトウをもって立ち向かう覚悟」(ビウィルトウとは、勇気・気概・技量などを意味する。)が、今、中央区に求められている。