(えんどうじ商店街 名古屋市西区那古野 2006年7月28日)
名古屋街道から美濃路に変わる四間道(しけみち)に隣接するこの商店街も、また七夕の季節となった。
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(沖縄県那覇市牧志)
国際通りから神原大通り、開南せせらぎ通りに至るこの通りは、戦後間もなく露店が立ち並んだことが始まりであり、昭和26年(1951)商店街入口にあった映画館、平和館に因んで名付けられた商店街である。昭和56年(1981)アーケードが設置されたが、老朽化により撤去が検討されている。
(熊本市中央区下通)
五年振りの下通アーケードを漫ろ歩く。個人商店は元気な感じがしたが、かつて賑わっていたダイエーが再開発のため更地となっていた。更にアーケード西口の県民百貨店閉店により、東口の鶴屋百貨店の独壇場となった。また、アーケードに隣接してカリーノ下通店があるが、昭和43年(1968)熊本出店を機に、大分県佐伯市から本社移転してきた寿屋百貨店(分類上はスーパー)が前身である。下通寿屋百貨店はRC造7階地下1階であり、当初は百貨店業態であったが、平成10年からはテナントにウェイトを置いた「with下通寿屋」となった。寿屋の最盛期は九州全土に店舗網を広げ、年間売上2,000億超え、従業員数も1万人近くに達したが、バブル崩壊後の売上減少と他店の攻勢に遭い財務状況が悪化し、平成13年に民事再生を申請、翌年までに全店舗が閉鎖となった。再生後は小売業から不動産業に転換し、一部は旧店舗によるテナントビル「カリーノ」になった。
カリーノ下通
(からほり 大阪市中央区谷町)
谷町筋から松屋町筋に続く風情のある商店街がある。商店街の途中に坂のある窪みは、かつての大坂城三の丸外堀であった名残である。上町台地を東西に800mにわたって軒を連ねる商店街であり、昭和25年(1950)にアーケードが設置され現在の姿になった。
北海道民の多くは、祖先が移住者であるためか、居所に対しての執着心が少ないのだという。ただ、他所へ移住した際、それまでの食習慣と本州以南との違いに最初は戸惑うのだという。近年は次第に本州と同じようになってきているようだが、例えば、食肉に関して、豚肉、鶏肉が主で、牛肉はあまりなく、代わりに羊肉(ラム:ジンギスカン)が多い。また、寿司も温かいシャリを好んだという。
歩いているものの、体が冷えてきたため、札幌名物の一つという「スープカレー」を食し、体を温めた。
私が今治に来ると、必ず歩く商店街である。前回訪れた一昨年と比べると、明らかに衰退が進み、開いている店が圧倒的に少なくなっていた。私が6歳のとき、初めて訪れた頃はシャッターの閉まっている店など皆無だと思ったが、時世からか変わってしまっていた。本籍を今治に置く私にとって、残念で仕方がない現況である。
(愛知県豊橋市花園町)
駅前の「ときわアーケード」に比べ地味なアーケードであるが、生活感があり私は好きである。大正時代に旧田原街道沿いに造られた商店街は、昭和38年(1963)アーケードが設けられた。現在は二代目で平成7年のものである。然し、平成22年度にアーケード撤去が予定されており、名古屋のOZモールのように更に閑散とした商店街にならなければと思う。
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