「末法/Apocalypse -失われた夢石庵コレクションを求めて」に誘っていただき細見美術館へ。この展覧会を催すスタンスが興味深かった。
「初公開」「新発見」「〇〇万人動員」あるいは「国宝・重要文化財指定」などとの指標だけで美術が語られる展覧会が次々と催されている。一方で、個性豊かな美意識・鑑識眼をもって美術品を蒐集していたコレクター・数奇者と呼ばれる人々が姿を消しつつある、と。これは美術にとってある種の末法の世ととらえている。その状況に戸惑いを感じる立場から、個人の美意識に基づいたコレクション展を催し、〈いいも悪いも、一人称で語り、評価する世界を楽しんでみて〉、と一石が投じられた。…と今展を理解してみた。
作品リストの一覧によれば、前・後期で多少の入れ替えがあるが展示作品は80点あまり。その中に国宝、重要文化財は一点もなかった。展示品の名称、時代と、中には所有者、伝来までが添えられたものがある。作者名がわかるのは長谷川等伯、与謝蕪村、丸山応挙、酒井抱一による絵画作品だけ。
見て回る際、少しでもいいから解説が欲しいと思ってしまった。いつも何がしかの説明を頼りに見ることが習慣づけられてきたせいか、物足りない。一見しただけでは、一つひとつの作品の奥がわからないのだ。けれど、そここそ個々に美の鑑賞が委ねられた部分でもあり、そこを楽しむのですよ、と投げかけられていたわけだろう。そうは言われても、語るほどのものを持ち合わせず、こういうのが身近にあったらいいのになと思うくらいで情けないこと。とは言え、で、いいなあと思うものからは、しみじみとした平安さ(?なんて表現があるかしら)、豊潤なぬくもり感(?などと言うかな…)で気持ちよく充たされる。この感覚、まさに個人的な好みの問題と言えそう。迦陵頻伽像(覚園寺伝来 パワーズ旧蔵)、金銅十一面観音懸仏(平安時代 藤田青華蔵)、薬師如来懸仏(鎌倉時代)などはとりわけ印象に残った。
見終わって出口を出たところに用意されてあった1枚の印刷物。そこから、この展覧会のちょっとした仕掛けを知って、「夢石庵って??」「えっ、どういうこと?」って、ワインを傾けながら友人と語り合う。その種明かし、ここではできない。この作品展の会期が終わるまでは、胸の内に収めておくという約束に…。語ってしまってる? いませんよね。
道路を挟んで東にあるロームシアター京都では「吉例顔見世興行」が開幕している。南座が改装工事中のためで、ここに掲げられたまねきの看板だけを見て帰ろうと立ち寄った。