秋彼岸。檀家さん参りもすんで連休も明け、時間がとれたので東本願寺にお参りをした。
これまでは各戸をうまく回れるように順番を組んでいたが、「出かけるから〇時にお参りしてほしい」とか「ご縁さん、うちはもう結構」というケースもずいぶんと増えた昨今です。
誰でも自分の都合で嫌い、切り、捨てていることが多くあるのではないだろうか。
水面はいつもきれいだ。地上からは見えない、岸から見えないけれど、その底では何万粒という砂が流れに乗って岸を削り、静かに静かに動いている。
根を張ることもなく揺すぶられ、意思と関係なく流され続ける砂利粒も、しっかりと跡を刻んでいるのだ。
「生きてりゃあ、なんかしら跡が刻まれる。誰でもそうだ。だが、どんな跡であれ、そこから逃げなきゃならねえ謂われはねえんだ」。
…………人の芯はそうそう奪えない。
定九郎の人生を生きながら、彼の涙に共感。そして、この龍造の言葉は私の心に住み着いているようだ。