
小寒の今朝。たまたまだったが今年に入って初めて大谷大学のホームページから毎月1日に更新されるページを開いてみた。「きょうの言葉」として次のような言葉が挙げられていた。
「物体は、より多くの仕方で触発される可能性があればあるほど、いっそう多くの力を持つ」
(ジル・ドゥールズ『ニーチェと哲学』)
ニーチェとか哲学とか、そして「物体」などと、平素なら即座に苦手だと敬遠してしまう言葉が目に入ったのに、なぜだろうか踏みとどまった。2,3回読んだかな。 「物体」は人間、人と置き直った。何か言わんとされることが、わたしなりの読みが、頭の中をぐるぐる…。
私などは狭い了見ですでに「自分」の世界を作ってしまっているところがあるが、これから未来が開ける孫娘のことが念頭に浮かんだ。春には中学3年生になる彼女の前に、今、道は二股に分かれてある。天分が生かされるには…。どちらを選ぶか。すでに気持ちは固まりつつあるようだ。心の内の声に従って取り組む一つ一つは、きっと何か良いことにつながっていくに違いない(と、思いたい)。いつか、ああ、あのときこの道を選んでよかったと感謝して振り返ることができるように、見守ってやらなくてはならないのだろう。
著作からの一節を引いた、以下に続く解説の冒頭部分を少しだけ追ってみた。「物体」と訳された主語は、「身体」の意味も持っていると記されていた。今日はここまでにして、東本願寺さんにちょっと参拝に出た。孫娘を思いながら手を合わせた
まだ1月初めだというのに椿が咲き、多くのつぼみも膨らみを増している。