京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

「表現行為の無視」?

2020年10月08日 | 日々の暮らしの中で

昨日は青い空をうろこ雲が飾って、秋らしい空気に満ちた朝でした。が、予報通り、午後から雨に。
雨はきょう一日、しとしとしとしと降り続きました。どこへ行く予定もなく、完全休養と言えもしますが、じっと家にいるのは案外疲れます。
机に向かったり、横になったり…。

朝刊の読者投稿欄に「ら抜き言葉 訂正に違和感」と題された、60代半ばの男性による一考が掲載されていました。ちょっと引っ掛かりをもって読み終えました。

【テレビ番組でインタビューされた人の言葉が、画面下に字幕で流れるが、本人が「ら抜き言葉」で喋っていても、字幕では「訂正」されて表記される。例えば、〈ご飯が食べれなくなった〉と喋っているのに、画面では〈ご飯が食べられなくなった〉とされている。
これに、しばしば違和感を覚える。日本人の多数が前者(ら抜き言葉)をネイティブの日本語として使っているにもかかわらずだ。文法として適格かどうかという議論は置くとして、少なくとも本人が正しいと思っていったことを了解もなく勝手に「訂正」するのは、その人の表現行為を無視することではなかろうか】
おおむねこうした展開の内容です。

私も字幕では「訂正」があることに気づいていました。
個人の表現行為を無視することだ、といった視点では考えが及ばなかったですが、私などはむしろ良識的だと感じているくらいです。
聞いていて、「ら抜き」は不思議と敏感に耳に引っ掛かります。それこそ違和感がある。言葉が時代の中で変遷することは理解していますが、「ら抜き」はヘンです。「ネイティブな日本語として」? そうなんでしょうか。

自分でできることとは、嫌いな言葉は使わないということです。
コメント (6)
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