京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

ひどすぎやしないか

2022年10月21日 | こんな本も読んでみた

夕飯準備の合間に、借りてきた上田三四二の小説『惜身命』から「天の梯(はし)」を開いた。

宮中歌会始の当日、迎えの車の中で5人の選者のうちの一人の久米川純が交通事故で入院したことを知った関谷。翌日病院に見舞うが、用意した花は供花に変わってしまった。

関谷には、長い信号待ちを我慢できず停車中の車の間を自転車を抱えて向こう側へと踏み出そうとしたことがあった。そのとき耳元で警笛がはじけた。彼は「見られており、見られていたことの幸いに、その一人の咄嗟の機転に救われた」

教会での葬儀に参列し久米川のために祈りながら、天国にいる彼を思い描けない。聖歌が讃え歌うように、「久米川は梯を喜々としてのぼったのだろうか」と思う。神を信じることのできない関谷は、「生きてある限りの自分と思い定め、死後をたのむ心を捨てている」。神父が言うように、死んで、永遠の命を与えられるとは考えられないのだ。

 

「死はある。しかし死後はない」「魂の持続を信じない、身を離れた心の永続を認めない」「私はちっとも死後を信じていない。花や膳を供えても、その思いの死者に届くとは考えていない。わが心に生きているかぎりの父母だと思っている」(『短歌一生』『この世この生』)。三四二の言葉にどうも引き寄せられてしまう。すべて同感!とはいかないが…。それで手を出した小説だった。

雲が切れて差した太陽がステンドグラスを輝かした。みごとな荘厳の描写がなされている。そして、「祭壇をわずかに明るませながら、祭壇の上に天国の空を懸けていた」と描いた。久米川さん、天上の梯を主の使いに招かれながら登っただろうか。
関谷には、夕焼け空に「懸かっているかもしれない天の梯は、見えない」のだけれど。

病気と闘いながら作品を残してきた久米川の日々を大切に思い返し、堪え抜いてきた不屈の生命が不意に奪われる運命を「ひどすぎやしないか」と心を重ねる。他人の人生へのいたわりを感じるとともに、一生の脆さが重く深く伝わってくる。作者自身の苦悩や日常の心が映し出されているようだ。


襖を開けた廊下の向こう西の空が明るかったのに、かげり出したと思うや暗さは一気に増した。
コメント (2)
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