
二月には「初花月」という異名があることを教えていただいた。
年の初めには雀にも晴れ着を着せてやり、「初雀」と言祝ぐ季語がある。
寒明けが近いが、実際にはまだまだ寒さは続く。そこに春を待つ花、水仙が蝋梅が咲き、椿にマンサクもと花を咲かせ始める。梅便りなど耳にすると寒さを忘れて観梅に足が向く。私たちは寒風の中に咲きそむる花を愛で、健気さや美しさを賞賛する。褒めたたえる気持ちを込めて、二月を「初花月」と呼ばせるのだろうか。
けれどそんな思いはみな人間側のこと。花は花だから咲くのだと言う。高田敏子さんの詩の一節に〈花は咲く 誰が見ていなくても 花の命を美しく咲くために 人は人である ・・〉とある(「あなたに」)。
ここに、47歳で癌のために還浄された坊守さんの手紙の文面(一部)がふと重なってくる。
したい したいが
こころが走るが できない
これもナンマンダブツ
何一つ 自力なしと
お礼いえぬ身が 教えてくれた
我がつくる善にはあらず 悪にはあらず
これ一色の 四十七年でした
手紙を通して学ぶ自然法爾の世界…。知識でも教養でもない。それで得るような信心ではない。一生をかけて聞法し、果たしてそれで?…、が私か。あれこれの思いに、ちょっと理屈っぽくなった。
今朝は、数日振りに庭を掃きました・・・そう、2月に入っただけで「春(3月)」に近づいている気分がそうさせるのでしょうか・・・庭も気分もスッキリです。
私自身、生を受けて七十有余年、他人様に評価を受けるものは、一切、持ち合わせて居ませんが、これまで「自力」で生きた来たという自己満足はあります。
だからと言って、何もかも自分が動かしていた訳ではないという認識も持っています。
転々とした職場も受け入れてくれた相手があってこそだし、病院生活未経験という一応の健康体は、神や仏の為せる事かも・・・やはり「自力」では果たされなかったのは事実でしょう。
大した(中小はあっても)波乱もない平々凡々の人生でも、何に敬意を払い何に感謝を表すかは、宗教的・科学的な程度・基準の違いはあっても、人間(大自然中の生物の一種?)として失ってはいけない大切なものと捉えておりますね。
大したことはありませんが今朝は雪の朝でした。
決して自分だけの力ではなく、たくさんのおかげをいただいて、様々なご縁の中で生かされてきたのですね。
伊豆の花さんが大切になさっている価値観、核となる思いにそって、これからもきっと柔軟に生きていかれるのでしょう。
私は信心という言葉を使えないでいます。
くり返し教えの言葉に触れ、時間をかけて自分のものにし、近づいていけばいいのでしょうね…。
そう思ってはいるのです。容易じゃない「おまかせ」です。
「他力一元 // こまごまと いちにちはたらいたが 気がつけば 大きな他力の中」
妙好人の榎本栄一さんです。
ややこしいこと綴りましたのに、コメントありがとうございます。