窓を開けてみました。雨あがり。澄んだ虫の音が暗闇に響きます。
夥しい数の (吉野 弘 『叙景』より )
夥しい数の柿の実が色づいて
やせぎすな柿の木の華奢な枝をたわませています
千手観音が手の先に千人の赤子を産んだとしたら
こんなふうかもしれないと思われる姿です
枝をたわませている柿の実は
母親から持ち出せる限りを持ち出そうとしている子どものようです
能う限り奪って自立しようとする柿の実の重さが
限りなく与えようとしてやせた柿の木をたわませています
晩秋の
赤みを帯びた午後の陽ざしに染められて
巧みな比喩で、絵画を観るように秋の一情景が浮かびます。
実りゆく若い命。何物にも代えがたい宝の山。
おおいかぶされたその重みの下で、母とはさらに祈る人なのでしょうか。
母であり妻であり、家族の中心でもある女性は、いつ解放されるのでしょう。
茨城のり子さんが若い人に向けて、「詩のこころを読む」として語っています。
くるあさごとに (岸田衿子 ―「詩集『あかるい日の歌』)
くるあさごとに
くるくるしごと
くるまはぐるま
くるわばくるえ
「私が毎日じたばた暮らしているせいか、生きるというのは、なんてこう、じたばたしなくちゃならないのかと思います。喜怒哀楽のさざなみ、大波にゆすられて」
「ときどきとなえたくなる呪文の一つ。」
「くるまはぐるま くるわばくるえ
時にはそんなふうに自分に言いきかせ、解き放ってやることも必要でしょう。」
「同じ空気を吸いながら、まったく自分一人のペースで生き、人に何と思われようとかまわず、自分の歌しか歌わない岸田衿子の存在と詩は、思いがけない方角に、ぽっかり風穴あけるような、作用を果たしてくれます。」
と語っています。
案外、この“呪文”、小さなすき間に大きなプレゼントを運んでくれるやもしれません。
青いですが、すずなりに
夥しい数の (吉野 弘 『叙景』より )
夥しい数の柿の実が色づいて
やせぎすな柿の木の華奢な枝をたわませています
千手観音が手の先に千人の赤子を産んだとしたら
こんなふうかもしれないと思われる姿です
枝をたわませている柿の実は
母親から持ち出せる限りを持ち出そうとしている子どものようです
能う限り奪って自立しようとする柿の実の重さが
限りなく与えようとしてやせた柿の木をたわませています
晩秋の
赤みを帯びた午後の陽ざしに染められて
巧みな比喩で、絵画を観るように秋の一情景が浮かびます。
実りゆく若い命。何物にも代えがたい宝の山。
おおいかぶされたその重みの下で、母とはさらに祈る人なのでしょうか。
母であり妻であり、家族の中心でもある女性は、いつ解放されるのでしょう。
茨城のり子さんが若い人に向けて、「詩のこころを読む」として語っています。
くるあさごとに (岸田衿子 ―「詩集『あかるい日の歌』)
くるあさごとに
くるくるしごと
くるまはぐるま
くるわばくるえ
「私が毎日じたばた暮らしているせいか、生きるというのは、なんてこう、じたばたしなくちゃならないのかと思います。喜怒哀楽のさざなみ、大波にゆすられて」
「ときどきとなえたくなる呪文の一つ。」
「くるまはぐるま くるわばくるえ
時にはそんなふうに自分に言いきかせ、解き放ってやることも必要でしょう。」
「同じ空気を吸いながら、まったく自分一人のペースで生き、人に何と思われようとかまわず、自分の歌しか歌わない岸田衿子の存在と詩は、思いがけない方角に、ぽっかり風穴あけるような、作用を果たしてくれます。」
と語っています。
案外、この“呪文”、小さなすき間に大きなプレゼントを運んでくれるやもしれません。
青いですが、すずなりに
やがて、色づく頃を迎えると、枝がしなるほどに重く
細い枝がしなやかに垂れることでしょう~。
昔を顧みると、我ながらなんとじたばたとしたことか...。
仕事に明け暮れ、子育てに奔走し、友人との葛藤に悩み
いろんなことありました。
今、この人生はなんとなくゆったりとした
もしかしたら、怠けているような気さえしますが...。
日々を大事に使いたい..とそういう愛しむ気持ちにさりました。
女の一生の中で数回は唱えたくなる言葉ですね。
何とも鬼気迫る言葉でもあります。
じたばたしている時が「旬」のような気がします。
寸分の狂いもない人生って面白いのでしょうか。私など少しですがズレっぱなしのような気がします。それでもしたたかに生きてます。でも時にはくるわばくるえ…の心境にもなりますよね。男は、少々狂っても帰る場所があります。その点女性は特に母親はそうは行かないんですよね。
でも、時には狂ってみる気概を持って、「生きている今が旬」だけは忘れないようにしたいですね。
ryoさんにとって、最高に充実された日々が今、この瞬間瞬間でいらっしゃるんですよね。
それを自覚しながら、目的に向かって豊かに時間を過ごせるなんて、幸せだなあ~と感じます。yattaro-さんの言われる「生きている今が旬」ということでしょうか。
じたばたあえいでいるのも、そこを越えた高みから、大きく人生を見つめて暮らす日々も、また、どんな形であれ、「生きてる今が旬」ということなのでしょうか。いろいろなシーンがありますね、ホントに。
ちょっとわからなくなってきてしまいました。
なにやら、やたらとyattaro-さんのお言葉の受け売りになってきてしまいます。
思いがけない拾いものをしてまた寄り道ができる...、そうした「すきま」があればこそかと。
以前にも「今が旬」なのだからと、励ましていただきました...。
ところが人間は、毎日毎日が生きています。どうせ生きているのなら、毎日毎日を「旬」だと思いたいのです。
イチジクも待宵草も近日中のブログネタでーす。
待ってます!!!
お言葉心にとめて
人生も旅のよう、アクシデントで好い旅になったり、すきまで発見があったり!
母ちゃん業は、祈って信じて待つことヤ!なんて感じることもあります。
今が旬、なるほど。感謝しつつ今できる事をして、大いなるモノにお任せし静かに見守りたい!自分も♪
九州の旅、国東では…
蓮の花の咲く頃の臼杵石仏、諭吉の中津、宇佐神宮などが オススメです。
オフで お会いして食事でも 〜ウフフ(*^^*)
いろいろな方の思いを聴かせていただけて本当にありがたいことです。
行ってみたいです~(笑)
出会えたご縁を大切に活かしていきたいですね。
そうそう、熊本城も水前寺公園も訪れて写真があるのですよ。
ですが記憶にありません。本当におかしなことです。