京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

わが庭の春のいそぎ

2020年02月20日 | 日々の暮らしの中で
丸山薫の書斎も、詩集『春のいそぎ』を書いた詩人・伊東静雄の書斎も、薄暗く、よく冷え込んだそうだ。 
その伊東静雄の教え子、庄野潤三が、師からこう助言されたことを小説『前途』の中で書いている、と。(「春のいそぎ」佐伯一麦)

「小説というのは、(略)空想の所産でもなく、また理念をあらわしたものでもなく、手のひらで自分からふれさすった人生の断片をずうっと書き綴って行くものなのですね」
何でもないようなことの中に喜びの種を見つけて、それを書いてゆくのを仕事とした庄野潤三の小説。平穏な日常、家族の幸福こそ注目していた。



ほんのり色づいた馬酔木の花が咲いていた。家族の楽しいお喋り、賑やかな笑い声が聞こえるかしら。

「わが庭の眺め」と題した作品を読み返すと、氏が仕事机で顔を上げると、二月下旬の今なら目の前に侘助がいくつも花を付けているのが見えるとあった。庭のムラサキシキブの枝に牛肉の脂身を詰めたとかごを括り付けておくと、野鳥の中では特に四十雀がこの脂身を好んでやって来るそうで、来ては食べする様子が楽しそうに書いてある。

私の部屋は庫裏の東側にあるが、庫裏全体が軒が深く、さらに東西とも南北に廊下が設けてあるので、東からの陽が部屋の奥まで届くことがない。やっぱり私の部屋も冷え込んでいる。
廊下と部屋の仕切りには障子戸がはまり、庭を眺めるには障子をあければならないが、目の前にはフツーの椿が咲く。その奥に月桂樹があり、今、山茱萸が蕾を膨らませている。いずれも高木だ。通路の向こう奥、おいしい富有柿の木がある。ライラックなんかもあるのだ。

あとなんだろう…、木々が多い中で、丈の低いわずかな草花も咲く。フキノトウが顔をのぞかせていた。球根の芽が出て、茎をのばし始めた。東南の隅では、少し前まで蠟梅がにおっていた。
「春のいそぎ」。広いだけでほんと大したことのない庭にも、春のいそぎは見てとれるわね。

コメント (2)
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