枕草子 第二百二十二段 三条の宮におはしますころ
三条の宮におはしますころ、五日の菖蒲の輿など持てまゐり、薬玉まゐらせなどす。若き人々、御匣殿など、薬玉して、姫宮・若宮に著(ツ)けたてまつらせたまふ。
いとをかしき薬玉ども、ほかよりまゐらせたるに、青ざしといふものを持て来たるを、青き薄様を、艶なる硯の蓋に敷きて、
「これ、笆(マセ)越しにさぶらふ」
とて、まゐらせたれば、
みな人の花や蝶やといそぐ日も
わが心をば君ぞ知りける
この紙の端をひき破らせたまひてかかせたまへる、いとめでたし。
皇后さまが(この年の二月に定子中宮は皇后になった)三条の宮においでになられました頃、五月五日の節供の菖蒲の輿(薬玉の材料や菖蒲などを運ぶ)を持って参って、薬玉を進上申し上げたりなどする。若い女房や、御匣殿(ミクシゲドノ・道隆四女、十八歳)など、薬玉を作って、姫宮(修子内親王、五歳)、若宮(敦康親王、二歳)にお付けになられる。
とても美しい薬玉を、他所から進上されたものなどに加えて、青ざし(青麦の芽を煎って作る菓子。青麦の穂、とも)というものを持ってきていましたので、青い薄様の紙を、しゃれた硯の蓋に敷いて乗せ、
「これは、柵越しの麦でございます」
(古今六帖にある「笆越しに麦喰む駒のはつはつに 及ばぬ恋もわれはするかな」の上の句を引用して、少しでも食事をするように勧めている。この時皇后は妊娠三か月で、体調がすぐれなかった)
と申し上げ、進上いたしますと、
「 みな人の花や蝶やといそぐ日も わが心をば君ぞ知りける 」
(皇后は少納言が引用した和歌の下の句を踏まえて、天皇のもとを離れて寂しい思いでいる自分の気持ちを、そなたはよく知ってくれているのですね、と答えている)
と、私が差し出しました薄様の紙の端を引き破られてお書きになられましたのは、なんとすばらしいことでございましょう。
この章段も、定子皇后の晩年の頃の思い出であります。
父、関白道隆の死によって中関白家の衰運は明らかでありましたが、定子皇后の切ない御歌に対しても、少納言さまは「いとめでたし」と結んでいます。
枕草子全体を通して、敬愛する定子に対する、少納言さまの一貫した態度が如実に表れているところです。
三条の宮におはしますころ、五日の菖蒲の輿など持てまゐり、薬玉まゐらせなどす。若き人々、御匣殿など、薬玉して、姫宮・若宮に著(ツ)けたてまつらせたまふ。
いとをかしき薬玉ども、ほかよりまゐらせたるに、青ざしといふものを持て来たるを、青き薄様を、艶なる硯の蓋に敷きて、
「これ、笆(マセ)越しにさぶらふ」
とて、まゐらせたれば、
みな人の花や蝶やといそぐ日も
わが心をば君ぞ知りける
この紙の端をひき破らせたまひてかかせたまへる、いとめでたし。
皇后さまが(この年の二月に定子中宮は皇后になった)三条の宮においでになられました頃、五月五日の節供の菖蒲の輿(薬玉の材料や菖蒲などを運ぶ)を持って参って、薬玉を進上申し上げたりなどする。若い女房や、御匣殿(ミクシゲドノ・道隆四女、十八歳)など、薬玉を作って、姫宮(修子内親王、五歳)、若宮(敦康親王、二歳)にお付けになられる。
とても美しい薬玉を、他所から進上されたものなどに加えて、青ざし(青麦の芽を煎って作る菓子。青麦の穂、とも)というものを持ってきていましたので、青い薄様の紙を、しゃれた硯の蓋に敷いて乗せ、
「これは、柵越しの麦でございます」
(古今六帖にある「笆越しに麦喰む駒のはつはつに 及ばぬ恋もわれはするかな」の上の句を引用して、少しでも食事をするように勧めている。この時皇后は妊娠三か月で、体調がすぐれなかった)
と申し上げ、進上いたしますと、
「 みな人の花や蝶やといそぐ日も わが心をば君ぞ知りける 」
(皇后は少納言が引用した和歌の下の句を踏まえて、天皇のもとを離れて寂しい思いでいる自分の気持ちを、そなたはよく知ってくれているのですね、と答えている)
と、私が差し出しました薄様の紙の端を引き破られてお書きになられましたのは、なんとすばらしいことでございましょう。
この章段も、定子皇后の晩年の頃の思い出であります。
父、関白道隆の死によって中関白家の衰運は明らかでありましたが、定子皇后の切ない御歌に対しても、少納言さまは「いとめでたし」と結んでいます。
枕草子全体を通して、敬愛する定子に対する、少納言さまの一貫した態度が如実に表れているところです。