枕草子 第三十八段 鳥は異どころのものなれど鸚鵡
鳥は、
異どころのものなれど、鸚鵡、いとあはれなり。人のいふらむ言をまねぶらむよ。
郭公。水鶏。鴫。都鳥。鶸。ひたき。
(以下割愛)
鳥は、異国のものでありますが、鸚鵡はとても可愛らしい。人の言葉をまねするそうですよ。
ほととぎす。くいな。しぎ。みやこどり。ひわ。ひたき。
山鳥は、友を恋しがっている時に、鏡を見せると、映った姿を友と思って安心するのでしょうか。純真で、いじらしい気持ちがします。雌雄の二羽が谷を隔てて離れているような時は、とてもかわいそうです。
鶴は、たいへん仰々しい格好ですが、「鳴く声が天まで聞こえる」というのが、とても結構です。
頭の赤い雀。斑鳩の雄鳥。たくみ鳥。
鷺は、見た目もとても見苦しい感じです。目つきなんかも、気味悪くてともかく親しみにくいけれど、「ゆるぎの森にひとりでは寝ないと妻をめぐって争う(和歌から引用)」とか、おもしろいことですね。
水鳥としては、おしどりがとても情緒があります。お互いに居場所を入れ替わって、「羽の上の霜を払う」という話ですよ。
千鳥はとても情緒があります。
鶯は、漢詩文などにもすばらしいものとして作られ、声をはじめとして、姿かたちも、あれほど上品で可愛らしいくせに、内裏の中では鳴かないのが、たいへんいけません。
ある人が、「皇居では鳴かないものだ」と言うものですから、「そんなことはないでしょう」と思ったのですが、十年ほど宮中にお仕えして聞いていましたが、本当に全く鳴き声を聞かなかったのです。本当に、そうなんですよ。
宮中には竹が近くにあり、さらに紅梅もあって、頻繁に通って来ても良いはずの場所なんですよ。
ところが内裏から退出してみますと、賤しい民家の見どころとてない梅の木などには、やかましいほどに鳴いているのです。
夜鳴かないのも、眠たがりやのような気がしますが、今更どうすることも出来ないでしょうね。
夏や秋の終わりにまで、年老いたような声で鳴いていて、「虫食い」などと、下々の者には、名をつけかえられて言われるのが、残念であり、奇妙な気がするのです。それも、例えば雀などのように、どこにでもいるような鳥であれば、それほど残念にも思わないのですが。
鶯は春鳴くものとされていて、「年立ちかへる」(和歌からの引用・・あら玉の年立ちかへる朝より待たるるものは鶯の声)などと、実にしゃれた言葉で歌にも詩文にも作るのですよ。やはり、春のうちだけ鳴くものであれば、どれほど良かったでしょうに。
人に対してもそうですが、一人前でもなく、世間の評判も悪くなり始めている人を、それほど非難しないでしょ。鳥でも同じことで、鳶や烏などのことは、よく見たり、聞き入ったりする人は、世間にはいないものです。
そういうわけで、「鶯は当然すばらしいものとなっている」と思うものですから、その欠点部分には不満足な気がするのです。
賀茂祭りの還りの行列(斎王行列)を見ようとして、雲林院や知足院などの前に牛車を止めていますと、ほととぎすも折からの情緒にがまんが出来ないかのように鳴きますと、鶯がとても上手にまねをして、小高い木立の中で、同じように声を合わせて鳴いているのですが、さすがに趣があります。
郭公(ホトトギス)は、今更言い表わす言葉がないほどすばらしい。
いつの間にか、得意そうに鳴いているのが聞こえているのに、卯の花や、花橘にとまっていて、姿はちらちら見え隠れしているだけなのが、しゃくなほどに気がきいているのです。
五月雨の頃の、短い夜の夜中に目を覚まして、「ぜひとも他の人よりも早く初音を聞こう」と待ち続けていますと、夜のまだ深い頃に鳴きだしたその声は、洗練されていて、とても魅力があり、まるで魂もさ迷い出るほどすばらしく、どうしようもありません。
六月になってしまいますと、まったく声がしなくなってしまうのも、何から何まで口にするだけ野暮なほどすばらしいものです。
夜鳴くものは、ほととぎすに限らず、何もかも結構なものです。。ただ、赤ん坊の夜泣きだけは、勘弁して下さい。
「何々は・・・」の章段の一つですが、なかなか興味深い内容です。
特に、鶯に関する部分は、おそらく少納言さまの個人的な見解で、当時の常識ではなかったと思うのですが、とてもおもしろいと思います。
一方で、ほととぎすに対しては、少し褒めすぎではないかと思われるほどです。
文中の、「まるで魂もさ迷い出るほどすばらしく、どうしようもありません」としました部分の原文は、『いみじう心あくがれ、せむかたなし』となっています。
どのような言葉に置き換えるのが、少納言さまの気持ちに一番近づけるのでしょうか。
鳥は、
異どころのものなれど、鸚鵡、いとあはれなり。人のいふらむ言をまねぶらむよ。
郭公。水鶏。鴫。都鳥。鶸。ひたき。
(以下割愛)
鳥は、異国のものでありますが、鸚鵡はとても可愛らしい。人の言葉をまねするそうですよ。
ほととぎす。くいな。しぎ。みやこどり。ひわ。ひたき。
山鳥は、友を恋しがっている時に、鏡を見せると、映った姿を友と思って安心するのでしょうか。純真で、いじらしい気持ちがします。雌雄の二羽が谷を隔てて離れているような時は、とてもかわいそうです。
鶴は、たいへん仰々しい格好ですが、「鳴く声が天まで聞こえる」というのが、とても結構です。
頭の赤い雀。斑鳩の雄鳥。たくみ鳥。
鷺は、見た目もとても見苦しい感じです。目つきなんかも、気味悪くてともかく親しみにくいけれど、「ゆるぎの森にひとりでは寝ないと妻をめぐって争う(和歌から引用)」とか、おもしろいことですね。
水鳥としては、おしどりがとても情緒があります。お互いに居場所を入れ替わって、「羽の上の霜を払う」という話ですよ。
千鳥はとても情緒があります。
鶯は、漢詩文などにもすばらしいものとして作られ、声をはじめとして、姿かたちも、あれほど上品で可愛らしいくせに、内裏の中では鳴かないのが、たいへんいけません。
ある人が、「皇居では鳴かないものだ」と言うものですから、「そんなことはないでしょう」と思ったのですが、十年ほど宮中にお仕えして聞いていましたが、本当に全く鳴き声を聞かなかったのです。本当に、そうなんですよ。
宮中には竹が近くにあり、さらに紅梅もあって、頻繁に通って来ても良いはずの場所なんですよ。
ところが内裏から退出してみますと、賤しい民家の見どころとてない梅の木などには、やかましいほどに鳴いているのです。
夜鳴かないのも、眠たがりやのような気がしますが、今更どうすることも出来ないでしょうね。
夏や秋の終わりにまで、年老いたような声で鳴いていて、「虫食い」などと、下々の者には、名をつけかえられて言われるのが、残念であり、奇妙な気がするのです。それも、例えば雀などのように、どこにでもいるような鳥であれば、それほど残念にも思わないのですが。
鶯は春鳴くものとされていて、「年立ちかへる」(和歌からの引用・・あら玉の年立ちかへる朝より待たるるものは鶯の声)などと、実にしゃれた言葉で歌にも詩文にも作るのですよ。やはり、春のうちだけ鳴くものであれば、どれほど良かったでしょうに。
人に対してもそうですが、一人前でもなく、世間の評判も悪くなり始めている人を、それほど非難しないでしょ。鳥でも同じことで、鳶や烏などのことは、よく見たり、聞き入ったりする人は、世間にはいないものです。
そういうわけで、「鶯は当然すばらしいものとなっている」と思うものですから、その欠点部分には不満足な気がするのです。
賀茂祭りの還りの行列(斎王行列)を見ようとして、雲林院や知足院などの前に牛車を止めていますと、ほととぎすも折からの情緒にがまんが出来ないかのように鳴きますと、鶯がとても上手にまねをして、小高い木立の中で、同じように声を合わせて鳴いているのですが、さすがに趣があります。
郭公(ホトトギス)は、今更言い表わす言葉がないほどすばらしい。
いつの間にか、得意そうに鳴いているのが聞こえているのに、卯の花や、花橘にとまっていて、姿はちらちら見え隠れしているだけなのが、しゃくなほどに気がきいているのです。
五月雨の頃の、短い夜の夜中に目を覚まして、「ぜひとも他の人よりも早く初音を聞こう」と待ち続けていますと、夜のまだ深い頃に鳴きだしたその声は、洗練されていて、とても魅力があり、まるで魂もさ迷い出るほどすばらしく、どうしようもありません。
六月になってしまいますと、まったく声がしなくなってしまうのも、何から何まで口にするだけ野暮なほどすばらしいものです。
夜鳴くものは、ほととぎすに限らず、何もかも結構なものです。。ただ、赤ん坊の夜泣きだけは、勘弁して下さい。
「何々は・・・」の章段の一つですが、なかなか興味深い内容です。
特に、鶯に関する部分は、おそらく少納言さまの個人的な見解で、当時の常識ではなかったと思うのですが、とてもおもしろいと思います。
一方で、ほととぎすに対しては、少し褒めすぎではないかと思われるほどです。
文中の、「まるで魂もさ迷い出るほどすばらしく、どうしようもありません」としました部分の原文は、『いみじう心あくがれ、せむかたなし』となっています。
どのような言葉に置き換えるのが、少納言さまの気持ちに一番近づけるのでしょうか。