『 解くる紐かな 』
あひ見ぬも 憂きもわが身の 唐衣
思ひ知らずも 解くる紐かな
作者 因幡
( 巻第十五 恋歌五 NO.808 )
あひみぬも うきもわがみの からごろも
おもひしらずも とくるひもかな
* 歌意は、「 あの人に逢わないのも これほど辛い思いをしているのも わが身から出たことですが そうしたわたしの思いも知らず 衣の下紐が解けてくるのです 」
何とも切ない恋歌です。なお、「解くる紐かな」という言葉は、何とも生々しい感じがしないでもありませんが、当時には、「恋人に逢える前兆」という考えがあったようです。
* 作者 因幡(イナバ)は、平安前期の女性ですが、その動向は多くは伝えられていないようです。因幡というのは女房名でしょうから、宮廷に仕える貴族の娘であったのでしょう。生没年は不詳ですし、伝えられている和歌の数も少ないようで、古今和歌集にも収録されているのはこの一首だけです。
* しかし、その出自や家柄ははっきりしています。
父は、基世王(モトヨノオオキミ・生没年は不詳です。)で、母は未詳です。
基世王は、仲野親王の御子で、桓武天皇の孫に当たる人物です。従って、因幡は桓武天皇の曽孫ということになります。歴としたお姫さまなのです。
* 基世王の生母も未詳ですが、仲野親王には十人を超える子供がいたようですし、桓武天皇ということになりますと、数え切れないというのは少々オーバーだとしても、多くの皇子や皇女がおり、伝えられていない御子の数も少ない数ではないようです。
そう考えますと、いくら天皇の曽孫といっても、有力な後見者、特に生母方の有力な後見者無しでは、宮廷内での手厚い処遇は期待できなかったのではないでしょうか。
* 因幡の父 基世王は、867 年に、無位からいきなり従四位下を与えられています。これは、桓武二世孫としての厚遇(蔭位)によるものなのでしょう。
ただ、その後は上に昇ることなく、883 年に下総守、884 年に山城権守と地方官を歴任し、889 年に因幡権守に就いていて、これが最終官位であったようです。
作者の女房名は、父の因幡権守によるものと考えられます。
* 従って、作者が因幡として宮仕えをしていたのは、889 年より後のことと推定されます。そして、それは、作者が十代から二十代の頃の事ではなかったのではないかと思うのです。
掲題の和歌がいつ詠まれたのか、その時期は分からないのですが、十代半ば頃までという感じはせず、むしろ、二十代、あるいはそれ以降のような気がするのです。全くの想像ですが。
もし、そうした推定が正しいとしますと、この歌が詠まれた頃には、酸いも甘いも受け止めることのできる女性であったように思ってしまうのです。
* 桓武天皇の曾孫という血筋でありながら、貴族としては決して上級とはいえない家の姫として育った作者は、それでも庶民の娘とは別次元の宮廷という舞台で、充実した時を送った女性であったと、勝手に思っているのです。
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