『 我を忘れぬものならば 』
かずかずに 我を忘れぬ ものならば
山の霞を あはれとは見よ
作者 閑院の五の御子
( 巻第十六 哀傷歌 NO.857 )
かずかずに われをわすれぬ ものならば
やまのかすみを あはれとはみよ
* 歌意は、「 わたしを忘れないで 様々に 思い出して 下さるのであれば 山にかかる霞を しみじみと眺めて下さい (わたしの火葬の煙なのですから)」といった、死を予期した辞世の句です。
* この歌には前書き(詞書)があります。
「 式部卿の親王、閑院の五の御子に住みわたりけるを、いくばくもあらで女御子の身まかりにける時に、かの御子の住みける帳のかたびらの紐に文を結ひつけたりけけるをとりて見れば、昔の手にてこの歌をなむ書きつけたる 」とあります。
死を覚悟した女性が、愛する人に切々と書き残した文です。
式部卿の親王(シキブキョウノミコ)というのは、宇多天皇の第四皇子、敦慶(アツヨシ)親王です。醍醐天皇の同母弟にあたります。閑院の五の御子は、正妻といえる位置付けの女性だったと考えられます。
この敦慶親王は、「好色無双の美人」と噂されたといい、源氏物語の光源氏のモデルだとも言われたようです。この「好色無双の美人」を現代の言葉でどう訳せば良いのか分らないのですが、非難する言葉ではないことは確かなようです。また、琴や和歌などにも優れ、妻の一人に歌人の伊勢がおり、その間に歌人として名高い中務が生れています。
* 掲題歌には作者名は明記されていません。
「閑院の五の御子」というのは、前書きの内容から分るようになっています。古今和歌集は、天皇や皇族の歌には作者名としては記さず、この歌のように、前書きから分るようにしています。つまり、「閑院の五の御子」が皇族の女性であることは間違いありません。ただ、その人物は完全に確定されていないようです。
多くの参考書は、宇多天皇の皇女均子内親王としており、私もそう考えています。ただ、均子内親王は 910 年に亡くなりましたが、古今和歌集の成立は 905 年頃とされていることから、時間軸が合わないことになります。従って、断定するには無理があるようにも思うのですが、個人的には、それでも何かの作用があったと考え、均子内親王と考えたいと思います。
* 均子内親王は、宇多天皇の皇女ですが、生母は女御の温子です。温子は関白藤原基経の娘で、正妻恪の女御で、均子内親王は温子の一人娘でした。
女御温子の珠玉の姫は、二歳年上の異母兄の敦慶親王と結ばれます。いつ頃のことなのか、婚姻期間がどのくらいなのかも分りませんが、切々たる歌を残して世を去りました。数え年で二十一歳の頃でした。
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