南九州を中心とした豪雨は、なお予断を許さない状況が続いています。
離れた地域に住む者にとっては、あまりなじみのない小さな川が、ごうごうと泥水を渦巻くようにして流れるさまは、テレビを通しての画像であっても、怖ろしさを感じます。
気象庁や地方自治体ばかりでなく、政権トップからも身の安全を守るようにとの呼びかけは、自然災害に対する必死の抵抗のように思われましたが、少しでも早く、少しでも安全な場所に避難するしか手段はなく、歯がゆさのような気もします。
自然災害に苦しめられるのは、わが国だけの事ではありませんが、地震や台風に加えて、大雨も同列にして対応の強化を進める必要性が増しているようです。
日本語には、我慢・辛抱・堪忍など、「耐え忍ぶ」といった意味の言葉が幾つもあります。
もしかすると、自然の厳しい試練に対応する手段として、こうした言葉が多く生まれてきたというのは考えすぎでしょうか。考えすぎかもしれませんが、例えば掲題とした「我慢と辛抱」ですが、日常よく使われている言葉ですが、文字を見直してみますと何とも難しい文字が使われています。そこにも、どうにもならないものに対する私たちの先人たちの知恵と苦悩が込められているような気がするのです。
因みに、それぞれの言葉について辞書などで調べてみました。
『我慢』は、もとは仏教語で、「高慢。うぬぼれ。おごり高ぶり。」といった意味で煩悩の原因となる一つとされています。
ふつう私たちは、この言葉を使う場合は、「我慢する」といった具合に、この言葉を押さえ込むといった意味に使われるのがほとんどです。今昔物語の中に、「我慢より癡心(チシン)を生ず」(高慢から愚かな心が生まれる。)とあるように、本来はこのように使われていたのかもしれません。
『辛抱』も、「心法」から転じたという説もあるようで、言葉の意味は我慢や堪忍と似通っていると思うのですが、何だか奥深い意味を含んでいるような気がします。
また、ある説明の中には、『我慢』は、嫌なことをひたすら耐え忍ぶことであり、『辛抱』は、楽しみを得るために耐え忍ぶことだとしているものもあります。
そう言えば、『堪忍』の方は、もうすこし幅広く使われているようですが、関西では、「堪忍してえナァ」「堪忍やで」「堪忍したるわ」といった具合に使われることがありますが、この場合は、かなり柔らかな雰囲気になります。
いずれにしても、私たちの日常生活には、ストレスがあふれており、至る所に癪の種(シャクノタネ)が散らばっています。
「堪忍袋」という理性を守る袋もありますが、その緒は案外簡単に切れるようです。
「我慢の限界」と開き直るのも一つの手段でしょうが、「ならぬ堪忍するが堪忍」という聖人君子のような教えもあります。
まあ、理不尽な行動に対して怒りを抑えることは簡単な事ではありませんが、怒りを爆発させる前に一呼吸おいて、「我慢ってどう書くのかな」「辛抱ってどう書くのかな」「堪忍ってどう書くのかな」と考えて、正解を導き出してから行動する、というのは案外良い方法ですよ。
ただ、本当に腹が立った時、そんなことを思い描けるかどうかが、問題なんですよ、ねぇ・・・。
( 2019.07.05 )
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