雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

里は逢坂の里

2014-12-21 11:00:44 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第六十二段  里は逢坂の里

里は、
逢坂の里。
ながめの里
睡覚の里。
         (以下割愛)


里は、
逢坂の里。ながめの里。睡覚(イザメ)の里。

人妻の里。たのめの里。夕日の里。
妻取りの里。「人に妻を取られたのか、自分が人の妻を取ったのか」と考えると、可笑しい。
伏見の里。朝顔の里。



ここでいう「里」とは、人家がある程度集まっている所のことで、「村」とほぼ同意語と考えてよいのではないでしょうか。
例によって、古歌などから引用されたと思われますが、引用源や所在地がはっきりしていないものもあります。

むしろこの章段は、男女の仲に関する言葉を集められているのが、少納言さまの狙いではないでしょうか。
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草は菖蒲

2014-12-20 11:00:26 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第六十三段  草は菖蒲

草は、
菖蒲。
菰。
葵、いとをかし。神代よりして、さる挿頭となりけむ。いみじうめでたし。もののさまも、いとをかし。
          (以下割愛)


草は、
菖蒲。菰。
葵、神代の昔から、そうした挿頭(カザシ・髪や冠に挿すもの)となったということが、とてもすばらしいことです。葉の形そのものも、とても趣があります。

沢瀉(オモダカ)は、面高というように名前が可笑しいのです。顔を高く上げて思いあがっているのだろうと思われるからです。
三稜草(ミクリ・沼地に生え簾の材料となる)。ひるむしろ。苔。雪間の若草。こだに。
かたばみ、これは綾織物の紋様として使われたりしていて、他のものより趣があります。

あやふ草(特定のものではなく、根なし草の類いか)は、崖っぷちに生えるらしいのですが、「危うい」というその名の通り、なるほど危なっかしいことです。
いつまで草(壁に生えるものらしいが未詳)は、これもまたはかない感じでかわいそうです。崖っぷちの草よりも、もっと崩れやすいことでしょう。しかし、しっかりとした漆喰塗などには、とても生えることが出来ないだろうと思われるのが、物足りません。
事なし草(未詳)は、願い事を叶えてくれるのかと思うと、可笑しくなります。

しのぶ草(軒などに生える羊歯植物)は、とてもしみじみした感じがします。
道芝は、とてもおもしろい。茅花(ツバナ・ちがや)もおもしろい。
蓬は、たいへんおもしろい。
山菅。日陰。山藍。浜木綿。葛。笹。あをつづら。なずな。苗。
浅茅は、とてもおもしろい。

蓮は、他のどんな草より格別にすばらしい。「妙法蓮華」と法華経で衆生済度にたとえられ、花は仏に奉り、実は数珠の玉に貰いて、阿弥陀仏を祈念して極楽往生を遂げる縁とするものなのですから。
また他の花が咲かない真夏の頃に、緑色の池の水に紅に咲いているのも本当にすばらしい。
蓮は「翠翁紅」とも漢詩に作られているのですよ。

唐葵(立ち葵)は、日の光の移るのに従って花が傾くというのは、草木ともいえない分別のある心を持っています。
さしも草。八重葎。
つきぐさは、染めた色があせやすいというのが、どうも情けないことです。



御存じ「何々は・・」の章段の一つですが、実に多くの種類が述べられています。
もちろん、現代の私たちの生活の周囲には、園芸店や植物園などへ行けば、はるかに多い種類の「草」を見ることが出来るのでしょうが、生活との密着度においてはとても平安の人々に及ばないような気がします。

本段でも感じるのですが、草や木について語る少納言さまは、とても生き生きとしているように思われるのです。
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草の花は

2014-12-19 11:00:11 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第六十四段  草の花は

草の花は、
瞿麦(ナデシコ)。唐のはさらなり。日本のも、いとめでたし。
女郎花。
桔梗。
          (以下割愛)


草の花では、
なでしこがすばらしい。からなでしこ(石竹)はさらに良いですね。日本のものも、とてもすばらしい。
おみなえし。
ききょう。

朝顔。かるかや。菊。壺すみれ。
りんどうは、枝ぶりなどがわずらわしいが、他の花がみな霜枯れてしまっている頃に、大変鮮やかな色合いで、目につくように咲いているのが、とても良いです。
また、わざわざ取り立てて、一人前の花として扱うほどのものではないのですが、かまつかの花(不詳。葉鶏頭とも、つゆくさとも)は、可憐な姿をしています。ただ、名前はどうも良くありません。雁の来る花(雁来花なら不詳)と文字では書いてあるのです。

かにひの花(諸説あるも確定できず)は、色は濃くはないけれど、藤の花ととてもよく似ていて、春と秋とに咲くのが、おもしろいのです。
萩は、大変色が濃く、枝もしなやかに咲いているのが、朝露に濡れて、なよなよと広がって伏しているのが良く、牡鹿が、とりわけて好んで近付くらしいのも、格別に趣があります。
八重山吹。

夕顔は、花のかたちも朝顔に似ていて、朝顔・夕顔と二つ並べて言うととても趣がある花の姿なのに、あの不格好な実の姿が台無しにしてしまい、とても残念です。どうして、そんなふうに、生まれついてきたのでしょう。せめて、「ほうずき」などというもの程度の大きさであれば良いのに。とはいっても、やはり夕顔という名前は趣があります。
しもつけの花。
葦の花。

「この『草の花は』のなかに、薄を入れないのは、とても変だ」と人は言うようです。
秋の野を通じての情緒は、まさに薄に限ります。穂先が蘇芳色(暗紅色)で大変濃いのが、朝霧に濡れてうちなびいている姿は、これほどすばらしいものが他にあるでしょうか。
しかし、秋の終わりはねぇ、全く目も当てられないのです。いろいろな色に乱れ咲いていた花々があとかたもなく散り果てた後に、薄だけが、冬の末まで、頭が真っ白になりざんばら髪になっているのも知らないで、昔を思いだしているような顔つきで、風になびいてゆらゆら立っているのは、人間にとてもよく似ています。
このように思い当たる節があるので、そのことがどうにもやりきれないような気持ちにしてしまうのです。



前段の続きといえる章段です。
「草」と「草の花」を分けているのもおもしろい発想ですが、個人的には、この中の「夕顔」と「薄」の部分が大好きです。
少納言さまの感性がとても現れていると思われませんか。
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集は古万葉

2014-12-18 11:00:31 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第六十五段  集は古万葉

集は、
古万葉。
古今。


和歌集は、
万葉集。
古今集。



「古万葉」という呼び名は私などは馴染みがないのですが、新撰万葉集(菅原道真撰)に対する名称のようです。
当時、著名な歌集がどの程度知られていたのか分かりませんが、少なくともこの二つについては、少納言さまに限らず、上流社会にある人たちは相当習得していないことには生きて行くことが出来なかったのではないでしょうか。
「枕草子」の随所にそれが垣間見られるように思われます。
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歌の題は

2014-12-17 11:00:33 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第六十六段  歌の題は

歌の題は、
都。
葛。
三稜草(ミクリ)。
駒。
霰。


歌の題としては、
都。葛。三稜草(水草の名。簾に用いられる)。駒。霰。



歌の題というのは、与えられた題によって歌を詠むことを指しているのでしょうが、挙げられている五つがそれほどよく登場したのでしょうか。
私などの感覚では、恋、月、雪、雨、霧、梅、桜、ホトトギス、などが上位にあるように思うのですが、あえてそのようなよく知られた歌題は避けていると説明している解説書もあります。

いずれにしても、歌題を受けて和歌を詠むことなどは、少納言さまの最も得意とするところのように思うのですが、実は、伝えられている和歌の数は極めて少ないのです。
少納言さまに歌が詠めないはずなどなく、一つの謎といえるのではないでしょうか。
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おぼつかなきもの

2014-12-16 11:00:49 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第六十七段  おぼつかなきもの

おぼつかなきもの。
十二年の山籠りの法師の女親。
知らぬところに、闇なるにいきたるに、「あらはにもぞある」とて、灯もともさで、さすがに並み居たる。

いま出で来たる者の、心も知らぬ、やむごとなきもの持たせて、人のもとにやりたるに、遅く帰る。
ものもまだいわぬ乳児の、そりくつがへり、人にも抱かれず、泣きたる。



心細くて気がかりなもの。
十二年の比叡山籠りをしている法師の母親。
よその家に、月のない闇の夜に行ったところが、「姿がはっきりと見えるといけない」ということで、気をきかせたのか従者たちは、ともし火もつけないで、それでも行儀よく並んで座っているのですよ。

新しく田舎から奉公に来た小者で、気心もよく分からない者に、貴重な物を持たせて、人のもとに使いに出したのに、なかなか帰って来ないのは気がかりなものです。
口もまだきかない乳飲み子が、そっくりかえって、人にも抱かれようともせず、激しく泣いているのは心細くなってしまいます。



「おぼつかなきもの」として四つの事例があげられていますが、いずれも私たちの感覚と殆ど変らないように思います。
二つ目にある「姿がはっきり見えるといけない」というくだりは、想い人を訪ねる男の様子のようですが、さて、お相手は少納言さまなのでしょうか。
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たとしへなきもの

2014-12-15 11:00:31 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第六十八段  たとしへなきもの

たとしへなきもの。
夏と冬と。
夜と昼と。
雨降る日と照る日と。
          (以下割愛)


比べようがないほど違っているもの。
夏と冬と。
夜と昼と。
雨が降る日と日が照る日と。

人が笑うのと腹を立てるのと。
年とっているのと若いのと。
白いのと黒いのと。
自分が愛する人と憎む人と。

同じ人でありながらも、自分に対しての愛情がある時と変わってしまった時とでは、本当に別人のように思われます。
火と水と。
太っている人と痩せている人。
髪が長い人と短い人と。

夜烏がたくさんとまっていて、真夜中頃にねぐらを争ってか騒いでいる。枝から落ちそうになってあわてふためき、枝から枝へ伝いながら寝ぼけ声で鳴いている様子は、昼間に見るのとはまるで違っていて、愛敬たっぷりでおかしい。



この段の内容も、とても分かりやすいものです。というより、本当に少納言さまの文章かと疑うほどで、小学校の、それも低学年の作文を見ているような気がします。

ただ、最後のカラスの部分は、昼間の精悍で賢そうなカラスに対して、夜中のとぼけた様子をおもしろがっているあたりは、少納言さまらしさを示してくれています。
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忍びたるところ

2014-12-14 11:00:04 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第六十九段  忍びたるところ

忍びたるところにありては、夏こそをかしけれ。
いみじく短き夜の明けぬるに、つゆ寝ずなりぬ。やがて、万づのところ開けながらあれば、涼しく見えわたされたる。
なほ、いますこしいふべきことのあれば、かたみにいらへなどするほどに、ただ居たるうへより、烏のたかく鳴きていくこそ、顕証(ケセウ)なる心ちして、をかしけれ。

また、冬の夜。
いみじう寒きに、埋もれ臥してきくに、鐘の音の、ただものの底なるやうにきこゆる、いとをかし。
鶏の声も、はじめは羽のうちに鳴くが、口を籠めながら鳴けば、いみじうもの深く遠きが、明くるままに近くきこゆるも、をかし。


人目を忍んで逢う場面としては、夏こそ趣がありますよ。
とても短い夜が明けてしまったのに、少しも寝ないままになってしまったのよ。前夜からずっと、どこもかしこも開けたままなので、早朝の庭が涼しく見渡すことが出来ます。
夜が明けてしまったとはいえ、もう少し話し合いたいことがあるので、お互いにあれこれと受け答えなどしているうちに、座っている部屋の真上から、烏が高い声で鳴いて飛び立つのは、昨夜からのことが見透かされているような気がして、可笑しくなってしまいます。

また、冬の夜も悪くありません。
とても寒いので、夜着をすっぽりとかぶって寝たまま聞いていると、鐘の音が、まるで果てしない底の方から聞こえるような気がするのが、大変情緒があります。
鶏の声も、はじめは羽の中に首を突っこんだまま鳴くのが、口ごもったような鳴き声なので、とても奥深く遠くに聞こえるのですが、しだいに夜が明けてくるに従って、近くに聞こえるようになってくるのも味わい深いものです。



なかなかに艶やかな章段です。
前段に、「夏と冬と」とがあり、それを受けての後朝(キヌギヌ)の様子です。
また、カラスも前段に続いての登場です。前段のカラスは、間抜けな夜烏ですが、この段は、何もかも知っているよと、したり顔の明烏です。

このあたりの表現は、少納言さまの実体験そのものだと感じられるのですが、如何でしょうか。
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懸想人

2014-12-13 11:00:02 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第七十段  懸想人

懸想人にて来たるは、いふべきにもあらず、ただうち語らふも、またさしもあらねど、おのづから来などもする人の、簾のうちに人々あまたありてものなどいふに、居入りて、とみに帰りげもなきを、供なる郎等・童など、とかくさし覗き、気色見るに、「斧の柄も朽ちぬべきなめり」と、いとむつかしかめれば、長やかにうちあくびて、「みそかに」と思ひていふらめど、
「あな、わびし。煩悩苦悩かな。夜は夜半になりぬらむかし」
といひたる、いみじう心づきなし。
          (以下割愛)


恋人として訪れている男性の場合には、とやかく言うべきではないことですが、ただ親しい間柄であるとか、それほど親しくはないが何かのついでに訪ねてきたりする男性が、廂の間に女房などがたくさんいて話などしているところに座り込んで、急には帰りそうな気配がないのを、その人の供をしている郎等や童などが、ちょいちょい覗きに来て、様子を探るのですが、
「斧の柄も腐ってしまいそうな雲行きだなあ」
と、いかにもむしゃくしゃしている様子で、長々と大あくびをして、「ひそかに心の中で」と思って、人には聞こえないつもりで言っているのでしょうが、
「ああ、いやだいやだ。全く煩悩苦悩だな。今夜は夜中になってしまいそうだ」
などと言っているのは、まったく感心できません。

その不平を言っている供の男のことは、別にどうでもいいのですが、この座り込んでいる男性のことが、かねて「いい人だ」と、見たり聞いたりしていた評判まで、帳消しにしているように思うのです。
また、それほどはっきりと口に出しては言えなくて、
「あーあ」と声高に言って、うめき声を立てているのも、「下行く水の・・」という歌の気持ちなのだろうと思われて気の毒な気がしてしまいます。(『心には 下行く水の わきかへり いはで思ふぞ いふにまされる』からの引用)

立蔀や透垣などのもとで、
「雨が降りだしそうだ」などと、聞えよがしに言うのも、ひどく憎らしい。
本当に立派な身分の方のお供をしている者などは、そんなふうではありません。君達(若君)程度の身分の方のお供は、まあまあですね。
それより下の身分の者のお供の場合は、みんなそうした状態なんですよ。
従者は多勢召抱えているのでしょうが、その中でも、気立てをよく見極めたうえで連れて歩きたいものです。



『懸想人』などという、ちょっと意味ありげな書き出しですが、この章段は、随行させるお供についての、少納言さまのご忠告です。

なお、文中の「斧の柄も・・・」という部分は、「述異記」とかにある、仙境の童子が一局囲むのを見ているうちに、斧の柄が朽ちてしまったという浦島伝説に似た話からの引用です。
また、『煩悩苦悩かな』という部分がありますが、現代の言葉としては「難行苦行」といった意味だと思うのですが、当時このような言葉が使われていたと思うと面白いですね。
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枕草子の謎

2014-12-12 11:00:06 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子   ちょっと一息

枕草子の謎 

古典と呼ばれるほどの文献には、多かれ少なかれ現代人から見れば謎に思える部分があるものですが、枕草子には特に多いように思われます。
今回はその中から二つ紹介させていただきます。

「第六十五段 集は・・」には、「古万葉。古今。」とだけ記されています。
少納言さまの短い文章の中には、現代の私たちではとても思い及ばないような仕掛けを感じさせる部分もあるのですが、この章段などは、特別に仕掛けがあるとも思われませんし、かといって、わざわざ一つの章段を形作るほどの意味があるのかどうか、首を傾げてしまいます。
「第六十八段 たとしへなきもの」の大半は、本当にこれが少納言さまの文章かと思われるような内容です。もし、少納言さまが自信を持って書き残されたものだとすれば、何か特別な仕掛けが隠されているのでしょうか。

二つとも謎というのは大袈裟かもしれませんが、私には不思議に感じられます。
もっとも、伝承されてくる過程で、脱落や混入があることは十分考えられます。しかし、もしこれらの章段が、少納言さまが書き残されたものそのもので、それもはっきりとした意図をもって書かれたものだとすれば、どこかに何かの仕掛けがあるように思うのですが、考え過ぎでしょうか。
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