「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」という山田太一氏の著書に
次のような文章がありました。
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……そういう意味でいまの日本って、お人好し社会だと思うんです。お人好しで
なにがいけないかというと、人間の実態に鈍感ですから、たとえば、自分の実態を超えて過度にいい人になろうとするとか、他の人にもうんといい人であることを要求するとか、
子供に対しても、そんなことを要求しても無理だということを要求してしまったりして、
その無理がどこかで暴力的に表に出て、自他を傷つけてしまうというようなことがあるからです。
たとえば、子供の能力に関係なく東大に入れたいとか、幼児から慶応に入れて後をラクにしてあげようとか計画を立ててします。
子供は無力です。十歳くらいまでは、どうしても親の計画に合わせざる得ない。
東大へ入ったから、なんなの?という議論は別にしても、
その子の能力を考えない、無茶苦茶な計画である場合も多いわけです。
残念なことだし、なんかひどく頭の悪い人の計画というように感じてしまいます。
(省略)
親がどうぬけめのないプランを立てたって、子供がその通りにならなければ、手も足も出ません。
いい学校へ入れようとしても入れない子供もいるし、コネを総動員してなんとか入れたら、こんな学校行きたくない、と登校拒否してしまうという例も少なくないようです。
それが子供の素晴らしさだと思うしかないのではないでしょうか。
はじめに流行の教育コースがあるのではない。生身の子供がいるのです。子供に従うしかない。それが一番リアルなことだ、というように思います、
子供が「なにが好きか」を基準にする他はない。それを助けることしか、親のできることはない、と思います。
(「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」 山田太一 PHP)
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「人間の実態に鈍感」という言葉を目にして、
このところ心に引っかかってもやもやしていたことが、
浮かびあがってきました。
最近、教室の能力の高いしっかりさんたちが、
小学校に通うだけでヘロヘロになって帰ってきて、
勉強に対しての不満や怒りを口にするようになりました。
親御さんたちにたずねると、少し前まで授業中に騒ぐ子がいて
親からのクレームが学校に集中したものですから、
今度は学校側が過剰に厳しいルールを徹底するようになって、
授業中は後ろに手を回して「聞く姿勢」というのを保つことを要求されることが多いそうなのです。
手遊びをさせないための配慮でしょうが、
低学年でも6時限まで授業がある日もあるので、
四六時中、緊張し続けていると、かなりストレスが溜まるようです。
おまけに、そうやって微動だにせずに
耳を傾けなくてはならない先生の説明が、
みんなが正解するレベルに設定した
「これとあれは、どっちが正しいでしょう?」といった簡単なものばかりなので、
授業が単なる苦行となっているようなのです。
一方で、文字がちょっとゆがんだり、はみだしたりするだけで赤で修正されるものですから、書き取りを嫌がったり、
細部に神経質になるあまり、それまで書けていた字も書けなくなったり
しているようです。
今の学校は、少しルールをゆるめると、
たちまち収拾がつかなくなるようなところがあるので、
学校の対応とすれば、ある面、仕方がないのかもしれません。
先生方も大変で一生懸命だ、ということもよくわかります。
それでも、もやもやした嫌な気分がくすぶるのは、
小学校での問題解決の方法が、
どんどん生身の子供とか人間というものの
実態からかけ離れていくように感じるからです。
人間は疲れるし、ストレスも溜まるし、
興味をそそられる話や自分が能動的に関われる場面では、
夢中になって集中しているけど、そうでないときは気がゆるむものです。
もちろん、小学校の授業を個々の子供の能力に合わせるのは
難しいですから、
それは仕方がないし、子供に常に先生の話に集中するように指導するのも
当然といえば当然です。
でも、そこに、人間というものを知っていて、
全体に向けての基本のルールは徹底するけど、そこにちょっと遊び心を含めたり、余白を設けておいたり、
感情の部分では、ストレス抱えてがんばっている子供の気持ちを理解していて、ある部分で見て見ぬ振りをするとか、大目に見るといった、
ささやかな個別対応があっていいと思うのです。
親の側も、
先生が自分の判断で、たまにはルールをゆるめたり、
一人一人の子にじっくり関わるのを、
人間というものへの理解から、
「ちゃんとしていない」とか「ひいきだ」とかいって
いちいち目くじらを立てずに、そっとしておくことも必要なのかもしれません。
山田太一氏が、
親に向けて、次のようにおっしゃっているのですが、
教育現場でもいえることだな、と思いました。
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人生の先輩として、方向をリードしたり忠告したりしたくなるのも人情でしょう。
しかし、親は自分の人格以上のものを口先で子供に伝えることはできないし、
口で伝えるようなことは、黙っていても伝えてしまっているのが、親子というものではないか、と思います。
自分の毎日の姿で伝えるしかない。
教育的な言辞は無駄なことが多いと思います。
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次のような文章がありました。
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……そういう意味でいまの日本って、お人好し社会だと思うんです。お人好しで
なにがいけないかというと、人間の実態に鈍感ですから、たとえば、自分の実態を超えて過度にいい人になろうとするとか、他の人にもうんといい人であることを要求するとか、
子供に対しても、そんなことを要求しても無理だということを要求してしまったりして、
その無理がどこかで暴力的に表に出て、自他を傷つけてしまうというようなことがあるからです。
たとえば、子供の能力に関係なく東大に入れたいとか、幼児から慶応に入れて後をラクにしてあげようとか計画を立ててします。
子供は無力です。十歳くらいまでは、どうしても親の計画に合わせざる得ない。
東大へ入ったから、なんなの?という議論は別にしても、
その子の能力を考えない、無茶苦茶な計画である場合も多いわけです。
残念なことだし、なんかひどく頭の悪い人の計画というように感じてしまいます。
(省略)
親がどうぬけめのないプランを立てたって、子供がその通りにならなければ、手も足も出ません。
いい学校へ入れようとしても入れない子供もいるし、コネを総動員してなんとか入れたら、こんな学校行きたくない、と登校拒否してしまうという例も少なくないようです。
それが子供の素晴らしさだと思うしかないのではないでしょうか。
はじめに流行の教育コースがあるのではない。生身の子供がいるのです。子供に従うしかない。それが一番リアルなことだ、というように思います、
子供が「なにが好きか」を基準にする他はない。それを助けることしか、親のできることはない、と思います。
(「親ができるのは『ほんの少しばかり』のこと」 山田太一 PHP)
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「人間の実態に鈍感」という言葉を目にして、
このところ心に引っかかってもやもやしていたことが、
浮かびあがってきました。
最近、教室の能力の高いしっかりさんたちが、
小学校に通うだけでヘロヘロになって帰ってきて、
勉強に対しての不満や怒りを口にするようになりました。
親御さんたちにたずねると、少し前まで授業中に騒ぐ子がいて
親からのクレームが学校に集中したものですから、
今度は学校側が過剰に厳しいルールを徹底するようになって、
授業中は後ろに手を回して「聞く姿勢」というのを保つことを要求されることが多いそうなのです。
手遊びをさせないための配慮でしょうが、
低学年でも6時限まで授業がある日もあるので、
四六時中、緊張し続けていると、かなりストレスが溜まるようです。
おまけに、そうやって微動だにせずに
耳を傾けなくてはならない先生の説明が、
みんなが正解するレベルに設定した
「これとあれは、どっちが正しいでしょう?」といった簡単なものばかりなので、
授業が単なる苦行となっているようなのです。
一方で、文字がちょっとゆがんだり、はみだしたりするだけで赤で修正されるものですから、書き取りを嫌がったり、
細部に神経質になるあまり、それまで書けていた字も書けなくなったり
しているようです。
今の学校は、少しルールをゆるめると、
たちまち収拾がつかなくなるようなところがあるので、
学校の対応とすれば、ある面、仕方がないのかもしれません。
先生方も大変で一生懸命だ、ということもよくわかります。
それでも、もやもやした嫌な気分がくすぶるのは、
小学校での問題解決の方法が、
どんどん生身の子供とか人間というものの
実態からかけ離れていくように感じるからです。
人間は疲れるし、ストレスも溜まるし、
興味をそそられる話や自分が能動的に関われる場面では、
夢中になって集中しているけど、そうでないときは気がゆるむものです。
もちろん、小学校の授業を個々の子供の能力に合わせるのは
難しいですから、
それは仕方がないし、子供に常に先生の話に集中するように指導するのも
当然といえば当然です。
でも、そこに、人間というものを知っていて、
全体に向けての基本のルールは徹底するけど、そこにちょっと遊び心を含めたり、余白を設けておいたり、
感情の部分では、ストレス抱えてがんばっている子供の気持ちを理解していて、ある部分で見て見ぬ振りをするとか、大目に見るといった、
ささやかな個別対応があっていいと思うのです。
親の側も、
先生が自分の判断で、たまにはルールをゆるめたり、
一人一人の子にじっくり関わるのを、
人間というものへの理解から、
「ちゃんとしていない」とか「ひいきだ」とかいって
いちいち目くじらを立てずに、そっとしておくことも必要なのかもしれません。
山田太一氏が、
親に向けて、次のようにおっしゃっているのですが、
教育現場でもいえることだな、と思いました。
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人生の先輩として、方向をリードしたり忠告したりしたくなるのも人情でしょう。
しかし、親は自分の人格以上のものを口先で子供に伝えることはできないし、
口で伝えるようなことは、黙っていても伝えてしまっているのが、親子というものではないか、と思います。
自分の毎日の姿で伝えるしかない。
教育的な言辞は無駄なことが多いと思います。
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えんぴつの部分を消して、直された部分を上からなぞるのです。ちょっとでもはみ出したらまた翌日やり直しです。この間は数字の「1」を直されて、何度も「1」を書いていました。
他の友達と比べると、みんなは上手で先生からシールをたくさんもらえるのに、自分はぜんぜんもらえないらしく、すっかり自信をなくしてしまいました。
自己流が好きな内向思考型で、今まで他人のいうことなんて聞かなかったし、ほめられることなんて無頓着だったのに、なぜ学校の先生の言うことが絶対だと思うのか、理解できません。
「字は個性があるから、いいんだよ」って私が言っても、納得しませんでした。もっと「1」をうまく書きたい、「5」をかっこよく書きたい、と言います。
勉強に対する「あこがれ」のようなものを持って入学したはずなのに、少し追いつめられているような感じがしています。「学校、勉強がすべてじゃないんだよ~」といっても、親の自分が毎日の姿で教えていなかったかもしれません。日々、勉強です。
奈緒美先生、いつもありがとうございます。
そのために親が勝手に子どもの人生のレールをひいたり、失敗させないように、先回りしたり、子どもの意思を無視してしまうのでしょうね。
でも、子どもたちが自分自身でいっぱい感じて、失敗して、挫折して、学んでいくことの方が多いのではないだろうか。もしかするとそういったことのほうが大切かもしれない。
親としては子供の苦しんでいる姿は見たくないけど、そうやって成長していくんでしょうね。
親の出来ることは、ほとんどないのかもしれないけど、少し離れたところで、暖かいまなざしで見守っていけたらと思います。
朝、いつもより1時間早く起きて走ることにつきあいました。
私は無理をして風邪をひきました。
娘はリレー選手になれませんでした。
でも、朝、一緒にストレッチしたあの時間、
一緒に走ったあの時間、いい時間をすごせました。
数字をかっこよく書きたいとお子さんが思ったのなら、
一緒にそばに寄り添って書くのを応援してあげてはいかがでしょうか?
少しでも上手に書けたら、先生じゃなくても、
お母さんからシールをあげたらいかがでしょうか?
えらそうだったら、ごめんなさい。
「まず、色を塗ります。肌色を横に持って~わたぬりと言います。次に白をわたぬりします。」と先生のする通りに生徒は描きます。
先生が見て、色が濃すぎた子は先生が勝手にテッシュでふきとります。
「次に目を描くよ~隣の人の目を見て~こんな風に描いて~」と先生は黒板に写実的な目を描いてみせます。
私は思わず「隣の子の目を見て描くなら自分の顔じゃないじゃん!」と心の中でつっこみをいれましたが(笑)子供は素直ですね~誰も文句を言わず先生の言うとおりに描いて絵は出来上がりました。みんな同じような特徴のない顔です。
私は「はあ~!」と疲れて、「何?この授業!」と怒りがこみ上げてきました。
一年生の授業って昔からこんなものなんですかね?自分の時の記憶がないのでわからないのですが。
こんなつまらない、それこそ苦行のような事をもくもくと五時間目まで続けられると勉強嫌いになってしまわないか心配です。
算数のプリントも絵の中の動物を数えるだけの問題なのに先生が黒板に書いた通りに写さないとダメらしいです(涙)
休み時間に折り紙をして良いのですが、一日2枚しか使ったらダメらしいです(涙)
今の小学校は何なのでしょうか?
来週オープンスクール(自由に学校の中を見て回れる)があるので、一年生の他のクラスや、上の学年の授業も見てみたいです。