写真は、スジャータの世界遺産バージョン。お城シリーズに続き、買ってみました。
以前、「次回に続きます。」と したまんま尻切れトンボに話が途切れたままずいぶん経ってしまった記事の続きを書くことにしました。
それから、今年の冬休みと春休みのレッスン……問い合わせをいただいていたので、ずっと悩んでいたのですが、どうしても都合がつきそうにないので、
夏休みまで待っていてくださいね。すいません~
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『「頭がよい」って何だろう』植島啓司 集英社新書
に
1985年のギネスブックでIQ230で
もっとも知能指数の高い人物として登録されている
マリリンという女性の話題が載っていました。
マリリン自身が語る
彼女の知的上達法は、次のとおり。
物事を書き留めたり、計算機を使ったりせず、頭の中で処理せよ。
なんでも断定せず、柔軟な心を保とう。
断定することは、学ぶことをやめることを意味する。
成就したいことがあれば、すべて自分で行動せよ」
というものでした。
子ども時代の柔軟な思考のあり方が、知的上達にいかに大切か
わかりますね。
著者の植島氏は、子どもには、身近なものに対する考え方を教えるべきだと書いておられます。
★ 必ずしも解答はひとつでないこと。
★ 違った道順で同じ結論に至ること。
★ 創造性は間違いの中にも潜んでいること。
などを、子ども時代にしっかり身に付けることこそ、
できるだけ最短距離を通って問題の核心に切り込めるようになる元となると。
幼児期から問いとひとつの答えを結びつける訓練をして、
学ばせることが、
子どもの頭を、大人のようにガチガチの固い状態にして、
先ほど紹介した3つの知的活動に不可欠な感性を
鈍らせないように気をつけなくてはなりませんね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それにしても、
★ 創造性は間違いの中にも潜んでいること。
とは具体的にどういう事をさして言うのでしょうか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アラン・チューリングという数学者が、
デジタル・コンピュータという機械が原理的に思考しうること(思考する存在として振舞えること)を探求していくときに、
「簡単な問題をしばらく考えてから間違った答えを出す」というコンピューターについて考えていました。
天才的な数学者アラン・チューリングは、
「間違える」ということを、とてもプラスイメージで捉えているのです。
えっ?
と疑問に感じるかもしれませんが、
A=Bといつでも、
問いから正しい答えに直結するような考え方は、
テストでは良い点に結びつくでしょうが、
柔軟性や、応用力は乏しいものです。
あまり創造的ともいえない。
大学のテストは、あっという間に全て満点の解答をはじきだせる
コンピューターは、作ることができるでしょうし、今も存在するのでしょうが、
それが何万台あっても、経済の問題も、環境問題も
解決しないものですよね。
そうした未知の問題を解決するには、不完全だけど、柔軟で、応用力があって、創造的な
人間の頭脳が必要となってくるのでしょう。
『「頭がよい」って何だろう』
には、
次のような一文があります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一般的に、コンピューターは高速で計算処理ができるようにつくられており、
論理的な問題処理能力にはすぐれているが、柔軟性がなく、
応用力に乏しい。
それに対して、人間はあれこれ気をとられたりして、
なかなかひとつのことに集中できないし、
また、多くの過ちを犯すだろうが、
それによって、また新たな発見につながるようなプロセスを見出すことが
できるのである。
そう人間にとっては、間違えることこそ、
あらゆる創造力の源泉があるともいえる。
(『「頭がよい」って何だろう』植島啓司 集英社新書より引用)
--------------------------------------------------------------
間違えることこそ、
あらゆる創造力の源泉があるって、何だか不思議な表現ですね。
さまざまな創造力について書いてある本を読んでいると、創造力にとって、
「間違える」だけでなく、「忘れる」ということも、
大事なようです。
お茶の水女子大学で教鞭をとっておられる外山滋比古氏が、『知的創造のヒント』という著書の中で、次のように書いておられました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これまで学校教育が記憶だけ教えて、忘却を教えなかったのは、たいへんな手落ちである。上水道をつくって、下水道をつくらず、たれ流しにまかせておくようなものである。
知識の異常な詰め込みが行われている現代である。正常な自然の忘却機能だけに頼っているのが危険なことはわかりきっている。
それに気づかないでいるとは、いったいどうしたことであろうか。
……ものを考えるのは、ものを覚えるのとはちがうけれども、頭の中にいろいろごちゃごちゃ詰まっている状態が望ましくないのは共通している。
たとえ有用な知識であっても、頭がいっぱい詰まっていれば、そのあとおもしろいことを考える余地もない。
ちょうど一面に書き込まれている黒板のようなものである。新たに何か書こうと思えば、まず、書き込める場所をこしらえなくてはならない。
黒板をふくのである。
それが忘却である。
……心は白紙状態、文字を消してある黒板のようになる。
思考が始まるのはそれからである。自由な考えが生まれるのは、じゃまがあってはいけない。
(『知的創造のヒント』外山滋比古著 ちくま学芸文庫より引用)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
こうした話を読むと、子どもたちを、いつでもどこでも「何となく忙しい」「あれもこれもしなきゃ」「わすれないようにしなきゃ」「失敗しないようにしなくちゃ」という強迫観念から解放してあげなくてはならないと感じます。
「やるときは、自発的に集中してやる。
遊ぶときは、全てを忘れてのびのび遊ぶ。」
そうしたサイクルが可能になるよう、生活を整えてあげたいですね。
web拍手を送る
以前、「次回に続きます。」と したまんま尻切れトンボに話が途切れたままずいぶん経ってしまった記事の続きを書くことにしました。
それから、今年の冬休みと春休みのレッスン……問い合わせをいただいていたので、ずっと悩んでいたのですが、どうしても都合がつきそうにないので、
夏休みまで待っていてくださいね。すいません~
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『「頭がよい」って何だろう』植島啓司 集英社新書
に
1985年のギネスブックでIQ230で
もっとも知能指数の高い人物として登録されている
マリリンという女性の話題が載っていました。
マリリン自身が語る
彼女の知的上達法は、次のとおり。
物事を書き留めたり、計算機を使ったりせず、頭の中で処理せよ。
なんでも断定せず、柔軟な心を保とう。
断定することは、学ぶことをやめることを意味する。
成就したいことがあれば、すべて自分で行動せよ」
というものでした。
子ども時代の柔軟な思考のあり方が、知的上達にいかに大切か
わかりますね。
著者の植島氏は、子どもには、身近なものに対する考え方を教えるべきだと書いておられます。
★ 必ずしも解答はひとつでないこと。
★ 違った道順で同じ結論に至ること。
★ 創造性は間違いの中にも潜んでいること。
などを、子ども時代にしっかり身に付けることこそ、
できるだけ最短距離を通って問題の核心に切り込めるようになる元となると。
幼児期から問いとひとつの答えを結びつける訓練をして、
学ばせることが、
子どもの頭を、大人のようにガチガチの固い状態にして、
先ほど紹介した3つの知的活動に不可欠な感性を
鈍らせないように気をつけなくてはなりませんね。
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それにしても、
★ 創造性は間違いの中にも潜んでいること。
とは具体的にどういう事をさして言うのでしょうか?
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アラン・チューリングという数学者が、
デジタル・コンピュータという機械が原理的に思考しうること(思考する存在として振舞えること)を探求していくときに、
「簡単な問題をしばらく考えてから間違った答えを出す」というコンピューターについて考えていました。
天才的な数学者アラン・チューリングは、
「間違える」ということを、とてもプラスイメージで捉えているのです。
えっ?
と疑問に感じるかもしれませんが、
A=Bといつでも、
問いから正しい答えに直結するような考え方は、
テストでは良い点に結びつくでしょうが、
柔軟性や、応用力は乏しいものです。
あまり創造的ともいえない。
大学のテストは、あっという間に全て満点の解答をはじきだせる
コンピューターは、作ることができるでしょうし、今も存在するのでしょうが、
それが何万台あっても、経済の問題も、環境問題も
解決しないものですよね。
そうした未知の問題を解決するには、不完全だけど、柔軟で、応用力があって、創造的な
人間の頭脳が必要となってくるのでしょう。
『「頭がよい」って何だろう』
には、
次のような一文があります。
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一般的に、コンピューターは高速で計算処理ができるようにつくられており、
論理的な問題処理能力にはすぐれているが、柔軟性がなく、
応用力に乏しい。
それに対して、人間はあれこれ気をとられたりして、
なかなかひとつのことに集中できないし、
また、多くの過ちを犯すだろうが、
それによって、また新たな発見につながるようなプロセスを見出すことが
できるのである。
そう人間にとっては、間違えることこそ、
あらゆる創造力の源泉があるともいえる。
(『「頭がよい」って何だろう』植島啓司 集英社新書より引用)
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間違えることこそ、
あらゆる創造力の源泉があるって、何だか不思議な表現ですね。
さまざまな創造力について書いてある本を読んでいると、創造力にとって、
「間違える」だけでなく、「忘れる」ということも、
大事なようです。
お茶の水女子大学で教鞭をとっておられる外山滋比古氏が、『知的創造のヒント』という著書の中で、次のように書いておられました。
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これまで学校教育が記憶だけ教えて、忘却を教えなかったのは、たいへんな手落ちである。上水道をつくって、下水道をつくらず、たれ流しにまかせておくようなものである。
知識の異常な詰め込みが行われている現代である。正常な自然の忘却機能だけに頼っているのが危険なことはわかりきっている。
それに気づかないでいるとは、いったいどうしたことであろうか。
……ものを考えるのは、ものを覚えるのとはちがうけれども、頭の中にいろいろごちゃごちゃ詰まっている状態が望ましくないのは共通している。
たとえ有用な知識であっても、頭がいっぱい詰まっていれば、そのあとおもしろいことを考える余地もない。
ちょうど一面に書き込まれている黒板のようなものである。新たに何か書こうと思えば、まず、書き込める場所をこしらえなくてはならない。
黒板をふくのである。
それが忘却である。
……心は白紙状態、文字を消してある黒板のようになる。
思考が始まるのはそれからである。自由な考えが生まれるのは、じゃまがあってはいけない。
(『知的創造のヒント』外山滋比古著 ちくま学芸文庫より引用)
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こうした話を読むと、子どもたちを、いつでもどこでも「何となく忙しい」「あれもこれもしなきゃ」「わすれないようにしなきゃ」「失敗しないようにしなくちゃ」という強迫観念から解放してあげなくてはならないと感じます。
「やるときは、自発的に集中してやる。
遊ぶときは、全てを忘れてのびのび遊ぶ。」
そうしたサイクルが可能になるよう、生活を整えてあげたいですね。
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『知的創造のヒント』の言葉もとても素敵な内容ですね。
先生のブログで紹介のあった本で気に入った言葉は自分で文章にイラストを添えてトイレに張ってあります。
自分の戒めのためにトイレにはるのですが,旦那や友達や子どもまで読んでくれています。
今までのでは,カリール・ジブランの「預言者」の子共についての詩が大好きです。
今回のも仲間入りさせていただきます。
本当に先生はたくさんの本を読み,文章を書かれるのですね。
すごいです。