先の記事で書いたように、子どものころのわたしは本が好きでたまらない子でした。
月に一度、移動図書のバスが近所に来てくれたのですが、家族の貸し出しカードを全部使いきっても
読み足らず、学校の図書室の常連でしたし、休日にはおこずかいを使って2駅先の図書館に通いつめていました。
そうした子ども時代の読書体験は、
「人が人生で遭遇する問題」に対して、どのように捉えたらいいのか
ちょっとしたコツを伝授してくれました。
それは、「人が人生で遭遇する問題」は、
ページの裏に答えが書いてあるなぞなぞやクイズとはちがうということです。
それだけで分厚い本一冊分のページを読み切って、ようやく完結するもの。
答えを求めてページをめくっていたつもりが、
最終章まできて、自分自身が答えだったと気づくもの。
問題の対象を何とか変えたくて、読みはじめたはずが、
時間とプロセスの力で自分自身が変容していたことを悟るものだということです。
そんな質感、
どっしりした手ごたえこそ、わたしが受け取った知恵の中身です。
「勉強ができない」「勉強がきらい」ということにしても
人生で遭遇する難しい問題のひとつです。
ちまたにあふれている宣伝文句の通りにアレやコレを試して、
望む結果に子どもを持っていこうとしても、
うまくいかないか、たとえうまくいったとしても別の問題の火種を作ってしまいかねません。
身近な大人には、
子ども自身が、ひとつひとつのプロセスを踏んでいく姿を見守る
分厚い本1冊分くらいの時間感覚が必要なのです。
前回までの記事で、こんなことを書きました。
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大人の管理や支配は、教育現場から、
自分のアイデア、疑問、知への感動、より高度な内容に踏み込んだ質問などを
発信していく姿、自分の思考の筋道を苦労しながら表現していこうとする意欲を根こそぎ奪ってしまいます。
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これは教室をしていて、毎日のように、実感していることです。
なぜなら、「勉強きらい」「勉強面白くない」「学校の勉強、つまんない」と繰り返していた子が、
子どもが勉強に興味を持ちだしたり、自発的に勉強しはじめたり、表情を輝かせて学ぶようになったりする
きっかけはみな同じなのです。
自分のアイデア、疑問、知への感動、より高度な内容に踏み込んだ質問がそれぞれの子のなかから生まれた瞬間です。
少し前に、こんなことがありました。
小学2年生の子らのレッスンで、「0,1,2,3,4
の5枚のカードがあります。これから3枚を取り出して、ならべて3けたの整数を作ります。
全部で何個の整数ができますか」という問題を出しました。
これはトップクラス問題集の4年生向けの問題なので、クイズを出す感じて、
できるようにさせるためではなく、
「どんな風に解くかな?」と様子を見るために出しました。
すると、最初はただ適当に書き出していこうとしていたAくんが、
「あっそうだ!」と紙に線を引いて、「1,2,3,4」のスペースを作ってから
百の位が1になるもの、2になるもの……などに分けて書き出しはじめました。
友だちのBくんも、同じように分けて解きだしました。
ふたりは、0の扱いや、書き出す上で気づいたことなどを
ああだこうだと言い合いながら解いていました。
途中で何か思いついた様子で、「あっ、そうだ!」と言って、
よりわかりやすい方法に書き直したりしていました。
ふたりとも、自分なりのアイデアをいろいろ試した後なので、
「どのようにしたいのか」がよくわかっているし、「どうもうまくいかない点」にも気づいています。
そこで、こうした問題を解くのに便利な樹木のような線を入れて
整理する方法を教えると、「あーそうか」と興味しんしんでした。
これが、先にプリントなどで樹木のような整理の仕方を習って、
その解き方に数字を当てはめていくように教えると、
子どもの頭は、「こういう問題を解くにはこういう図を書いて解く」ということはわかっても、
何のためにそんな整理の仕方をするのか、理解できないのです。
子どもが自分の頭を使って考える前に答えを教えてしまって、
その結果に向けて、無理やりにできる形に持っていこうとすると、
なぞるようにはできても、わかりはしないのです。
この日、自分でいくつかの解き方を試してみたAくんは、
全身で「算数って面白いな」という思いを発していました。
座り方は何通り?