結局のところ、3月24日以来、葬式の三連チャンとなってしまいました。
義理で行く葬式ならそれなりにこなせばいいのですが、それぞれ親しかった人となるとこちらも凹みそうになります。
しかし、ここで凹んでいては、彼や彼女らが見果てなかったものを見てやろうという私の決意も危うくなりますから、ここは死者たちには申し訳ないのですが、しばらくは話題を変換しようと思うわけです。
こうした場合の感傷はある程度不可避なのでしょうが、そこにどっぷり漬かっていると、ただただルサンチマンのようなものに囚われるのみで、それらを契機に見なければならないものも見えてこないと思うのです。
死者たちは、私に新しい局面を見せるためにその命を費やしたのだと考えることこそ生産的だと思うのです。
キリストがそうであったように・・。
(ああ、しかしながら、人々はキリストの死をそうしたものと解することなく、巨大な恨みつらみの体系を築いてしまったのだ!・・と嘆いてみせる)
アッ、こんなところにライオンが
話題は少し前の愛知芸術文化センターから拾ったものです。
写真はすべて、12階の間隙から10階のロビーを臨んだものです。
被写体の動物たちは、すべてそれ自身がアートです。
他の場所にはキリンもいました。そのキリンは、撮影を断られました。
展示場ではなく、わざわざ公の場所に展示するのになぜ断るのか理解できませんでした。
この人気づいていない・・
やがてその謎が解けました。
私はわざわざ、作品の近くにいる係員とおぼしき人に写真を撮ってもいいかどうかと尋ねたのです。その結果が「NO!」でした。
しかし、私のようにその許諾を確かめない人たちは、ケイタイでどんどん撮っています。
ようするに、主催者側に礼を尽くす者にはダメだということです。
象だっているんだゾウ
ですから、この12階から10階を見下ろす写真は断りなしに撮りました。
こういうものをこしらえ、公の場所に展示する人たちに敬意を表します。その敬意の印がこの写真であり、日記やブログへの掲載だと解釈して下さい。
最後の写真は同じ場所ですが撮った日が違います。
この写真はデジカメですが、ほぼ似たアングルをマニュアルカメラで撮り、生まれて初めて写真展なるものに出品しました。題して、「昼下がりのロビー」。
評価や賞のない写真展でしたが、高校時代の部活の仲間から、「お前の写真、岐阜駅の構内で見たぞー」という電話があったのが唯一の反応でした。
昼下がりの情事・・ではなくロビー
なお、動物の写真を撮った日は、前の日記で触れた故・伊藤益臣氏と最後に会った日でした。この写真を撮ったあと、12階の会議室で午後の長い時間を一緒に過ごしたのでした。
死者たちとの決別のつもりで書き始めたのに、またしてもそこへと回帰してしまいましたね。
どんなに抗っても、私たちは死者たちの視野のもとにあります。彼らの視線は時を越えて私たちを貫いています。一見それらとは無縁な私たちの行為も、それらへの応答であることは心すべきでしょう。
私たちはそれに応答し続けることによって明日の死者たり得るのです。
(なんちゃって・・少し照れています)
義理で行く葬式ならそれなりにこなせばいいのですが、それぞれ親しかった人となるとこちらも凹みそうになります。
しかし、ここで凹んでいては、彼や彼女らが見果てなかったものを見てやろうという私の決意も危うくなりますから、ここは死者たちには申し訳ないのですが、しばらくは話題を変換しようと思うわけです。
こうした場合の感傷はある程度不可避なのでしょうが、そこにどっぷり漬かっていると、ただただルサンチマンのようなものに囚われるのみで、それらを契機に見なければならないものも見えてこないと思うのです。
死者たちは、私に新しい局面を見せるためにその命を費やしたのだと考えることこそ生産的だと思うのです。
キリストがそうであったように・・。
(ああ、しかしながら、人々はキリストの死をそうしたものと解することなく、巨大な恨みつらみの体系を築いてしまったのだ!・・と嘆いてみせる)
アッ、こんなところにライオンが
話題は少し前の愛知芸術文化センターから拾ったものです。
写真はすべて、12階の間隙から10階のロビーを臨んだものです。
被写体の動物たちは、すべてそれ自身がアートです。
他の場所にはキリンもいました。そのキリンは、撮影を断られました。
展示場ではなく、わざわざ公の場所に展示するのになぜ断るのか理解できませんでした。
この人気づいていない・・
やがてその謎が解けました。
私はわざわざ、作品の近くにいる係員とおぼしき人に写真を撮ってもいいかどうかと尋ねたのです。その結果が「NO!」でした。
しかし、私のようにその許諾を確かめない人たちは、ケイタイでどんどん撮っています。
ようするに、主催者側に礼を尽くす者にはダメだということです。
象だっているんだゾウ
ですから、この12階から10階を見下ろす写真は断りなしに撮りました。
こういうものをこしらえ、公の場所に展示する人たちに敬意を表します。その敬意の印がこの写真であり、日記やブログへの掲載だと解釈して下さい。
最後の写真は同じ場所ですが撮った日が違います。
この写真はデジカメですが、ほぼ似たアングルをマニュアルカメラで撮り、生まれて初めて写真展なるものに出品しました。題して、「昼下がりのロビー」。
評価や賞のない写真展でしたが、高校時代の部活の仲間から、「お前の写真、岐阜駅の構内で見たぞー」という電話があったのが唯一の反応でした。
昼下がりの情事・・ではなくロビー
なお、動物の写真を撮った日は、前の日記で触れた故・伊藤益臣氏と最後に会った日でした。この写真を撮ったあと、12階の会議室で午後の長い時間を一緒に過ごしたのでした。
死者たちとの決別のつもりで書き始めたのに、またしてもそこへと回帰してしまいましたね。
どんなに抗っても、私たちは死者たちの視野のもとにあります。彼らの視線は時を越えて私たちを貫いています。一見それらとは無縁な私たちの行為も、それらへの応答であることは心すべきでしょう。
私たちはそれに応答し続けることによって明日の死者たり得るのです。
(なんちゃって・・少し照れています)