六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「黄昏時は寂しくて」かな? 写真とおしゃべり

2009-04-02 13:56:46 | 写真集
 黄昏(たそがれ)時は人恋しいというが本当でしょうか。
 黄昏時に限らず、四六時中人恋しいと思っている私ですが、それはそれで何となく分かる気がします。
 おそらくはその時刻に関連するのでしょう。
 一日が終わろうとするとき、それは様々な絆から解き放たれてひとりに返るときで、現世との仮の離別でもあります。これからの夜に向かってひとりであること、それは幾分センチメンタルな寂寞感を誘う絶好の機会でもあります。夕陽や長くなった影の演出、それらは寂寞感に過剰な彩りを添えます。

     
            黄昏行く名古屋テレビ塔

 黄昏の語源は、薄暗くなって人の見分けがつき難くなるところから、「誰そ彼(たそかれ)」→黄昏(たそがれ)になったといいます。これは知っていたのですが、確認しているうちに新しい発見をしました。とはいえ、知っている人はとっくに知っているようなことでしょうが。
 それは、黄昏の反対語、明け方の表現で、「かはたれ」というのだそうです。そしてその語源は「彼は誰(かはたれ)」から来ているというのです。これもまた、人の見分けが難しいことから来ていますね。

 
         黄昏の伊吹山 手前に光るのは長良川

 ところで私の好きな黄昏時は、こうした人の見分けがつかなくなる少し手前、さあ、黄昏が始まるぞという時なのです。ようするに、まだ色彩も残っていてある程度の見分けもつくが、やがてそれが決定的に闇に溶け込むための前奏曲、その時間帯が好きなのです。これは好悪の問題ですから論理的には説明できません。
 敢えていうなら、変化への期待と不安、それは不可避なのだけど一度身構えてからしか受容できないそうした自己への固執のようなもの、何か抽象的でよく分かりませんね。だから論理的には説明できないといったでしょう。

 
              家路を急ぐ人々

 これらはものごとの移行時、変化時に伴う感傷なのでしょう。一般的な無常観もこれに近いかも知れません。しかし同時にそれは、移ろい行くものへと寄り添う心情をも表していないでしょうか。
 こうしたものごとの変転移行の時期、もっとマクロにいえば歴史の変換時に、人々の感覚や感傷も研ぎ澄まされるようです。そうした時期には多くの芸術家たちがそれを糧として然るべき作品をものにしています。
 あ、黄昏についての考察からは随分の飛躍ですね。

    
               黄昏の飛行機雲

 私のいいたかったことは、黄昏に心うずくのはある意味では感傷に過ぎないけれど、変化や移ろいゆくものへの共振といった面を持ち合わせてはいないだろうかということです。
 そうだとすれば、黄昏は「誰そ彼(たそかれ)」や「彼は誰(かはたれ)」を経由して新しい光のもとへと自己を指し示す通過点にしてその予兆であるのかも知れないと思うのです。
 移ろうことを恐れず、真昼の陽光に向かって「ヤー」と叫ぶかの哲学者に思いを馳せています。

     
              黄昏のレストラン

 人生の終焉近くをやはり黄昏時ともいうようですが、私の場合はまだそうではありません。まだいろいろなものがはっきり見えています。いわば、私のいう黄昏プレリュードの時期でしょうか。
 ところであなたは誰ですか?
 え?ものが見えているのに「誰そあなた」だったら「誰そ彼」よりも危ない?
 やっぱり。
 もう黄昏れちゃったのかなぁ。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする