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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「死」の意味  私の読書ノートから

2014-07-06 16:45:51 | よしなしごと
 写真は内容とは関係ありません。農協の花売り場での薔薇三態

 《死 ひとりで絶対的単独性へと引き渡されること 日常的な生を前提とする政治という地平、他者とともに在る生という地平からの離脱

 以上は最近の私の読書ノートからだが、以前はそんなフレーズに接しても一般論として「なるほど、そんなものか」とスラッと通り過ぎることできたが、いまではフト立ち止まって考えざるをえない。これは一般論ではなくて、ほかならぬ私の近未来のことについてなのだ。
 私の読書ノートは続く。


          

 《しかしここでひとつの逆転が生じる これは主として、ハンナ・アーレントの持論によるものだが、人々の間での活動の場面では死はその相貌を変える
 われわれが所属する社会が(相対的な)不死性をもっていること、われわれの種が潜在的な不死性をもっていること、それはあたかもその個々の生命の間断なき生死によってひとつのより巨大な生が生き続ける様相を呈している そこへと自分は生まれ来てそして去ってゆくということは自分の死が決して単独なものではないことを意味している  
 そしてそのように死を受容するのは人間においてのみである(だから人間以外の生物は死なない ただその生を終えるのみ)


          

 たしかに私が「未来」というとき、私の存命中には限定されない。とりわけ歴史や世界を考えるとき、私がまだこの世に生を受けなかった時期から、死後に至るまでその思いは広がる。まさに私は生を受けてここに来て、やがてここから去ってゆくのだ。
 
 しかし、もうひとつ考えることがある。
 それはかつての戦争において、特攻隊を始めとし、死を賭して戦地に赴いた若者たちも、個にとっては理不尽な死を、上記のアーレントと似た回路でもって考えたのではあるまいか。
 先ごろ再読した『きけ わだつみのこえ』にも、上記ほど洗練された言葉ではないにしろ、それに似た思いが(それはまた必死で自分の死を意味づけようとする試みなのだが)、縷々綴られていた。

          

 私のように老齢による死を待つ身はともかく、未来のある若者たちが、自分に課せられた理不尽な死に、無理やり取って付けたような意味付けをしなければならない世の中にはしたくないものだ。

コメント (3)
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