We shall be free!
映画のラスト、主人公が失意のうちにも未来への希望を込めて朗々と歌い上げるフレーズがいつまでも頭や胸に残る(実際にはエンドロールとオーバーラップする曲がもう一つあるのだが)。

1970年代末、アメリカで実際にあった出来事の映画化である。
ショーダンサー(ルディ)と検事(ポール)というゲイカップルが、麻薬常習者の母に捨てられたダウン症の少年(マルコ)と出会い、ある意味では擬似的であるものの、情が通い合った「家庭」を持つに至る。まさに、マイノリティが肩を寄せ合うようなトリオではあるが、当人たちにいささかの悲壮感もなく、お互い胸襟を開いた関係が進展して行き、少年を学校へ通わせるなどの積極的な姿勢が共感を呼ぶ。
しかし、そうしたささやかなつかの間の幸せに牙をむき出す者たちがいる。
法と正義、道徳を振りかざすマジョリティの「社会」である。
このエスタブリッシュメントからなる「社会」は、あの手、この手を使ってこの「家庭」を破壊しようとする。
もちろん、彼らカップルも、あらゆる手段を動員してこれに抵抗する。

その結末はこの映画のハイライトなのでここでは述べないが、法と正義を振りかざして襲いかかる者たちのなかでスッポリ抜け落ちているのは、この少年の具体的な生、そしてその未来であることだけはいっておこう。
情に流されやすいルディと論理的で理知派のポールは考えてみたらいいコンビである。そして、一見愚鈍そうに見えながら、周囲の人間の情感を的確に受け止め反応してゆくマルコの感受性、そして顔中をくしゃくしゃにする笑顔も素晴らしい。

彼らは打たれても、叩かれても戦い続ける。
それを象徴しているのが冒頭に述べた「We shall be free!」で終わるルディの歌だ。そしてそれは、容易に妥協したり屈服したりしない者のみが口にできる歌詞でもある。
なお、ルディを演じるアラン・カミングの演技と歌が圧巻である。
【特記】ホモセクシャルに違和感をもつ方にとくにお勧めします。世の中にはそんなことへのこだわりよりも、もっと普遍的な問題があることを教えてくれるからです。もし、映画の冒頭に抵抗があったとしても、見続ける内にそんなことを超えた地点へと至ることができると思います。
映画のラスト、主人公が失意のうちにも未来への希望を込めて朗々と歌い上げるフレーズがいつまでも頭や胸に残る(実際にはエンドロールとオーバーラップする曲がもう一つあるのだが)。

1970年代末、アメリカで実際にあった出来事の映画化である。
ショーダンサー(ルディ)と検事(ポール)というゲイカップルが、麻薬常習者の母に捨てられたダウン症の少年(マルコ)と出会い、ある意味では擬似的であるものの、情が通い合った「家庭」を持つに至る。まさに、マイノリティが肩を寄せ合うようなトリオではあるが、当人たちにいささかの悲壮感もなく、お互い胸襟を開いた関係が進展して行き、少年を学校へ通わせるなどの積極的な姿勢が共感を呼ぶ。
しかし、そうしたささやかなつかの間の幸せに牙をむき出す者たちがいる。
法と正義、道徳を振りかざすマジョリティの「社会」である。
このエスタブリッシュメントからなる「社会」は、あの手、この手を使ってこの「家庭」を破壊しようとする。
もちろん、彼らカップルも、あらゆる手段を動員してこれに抵抗する。

その結末はこの映画のハイライトなのでここでは述べないが、法と正義を振りかざして襲いかかる者たちのなかでスッポリ抜け落ちているのは、この少年の具体的な生、そしてその未来であることだけはいっておこう。
情に流されやすいルディと論理的で理知派のポールは考えてみたらいいコンビである。そして、一見愚鈍そうに見えながら、周囲の人間の情感を的確に受け止め反応してゆくマルコの感受性、そして顔中をくしゃくしゃにする笑顔も素晴らしい。

彼らは打たれても、叩かれても戦い続ける。
それを象徴しているのが冒頭に述べた「We shall be free!」で終わるルディの歌だ。そしてそれは、容易に妥協したり屈服したりしない者のみが口にできる歌詞でもある。
なお、ルディを演じるアラン・カミングの演技と歌が圧巻である。
【特記】ホモセクシャルに違和感をもつ方にとくにお勧めします。世の中にはそんなことへのこだわりよりも、もっと普遍的な問題があることを教えてくれるからです。もし、映画の冒頭に抵抗があったとしても、見続ける内にそんなことを超えた地点へと至ることができると思います。