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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私が経験しなかった幼稚園と三輪車

2014-07-12 02:33:15 | 想い出を掘り起こす
 私の幼児期というのは戦争のまっただ中で、空襲警報で防空壕へ駆け込むような日常だったから、平和期の幼児体験とはずいぶん違う。
 
 違いをあげたらきりがないが、まずひとつは、私は幼稚園というものに行ったことがない。戦時中ということもあるが、私が田舎へ疎開していたからかもしれない。街中では同年令で幼稚園に行った人もいるようだ。

 私がこの歳になってもなおかつ非常識な点があるとしたら、きっとそうした幼児教育を受けてこなかったからだろう。
 今からでも遅くはないから幼稚園へ入園しようかなとも思う。よくホラ、定年退職してから高校や大学へ入り直すひとがいるではないか。そのノリである。そうすれば、「むすんでひ~らいて」も習得できるし、「あのこはだあれ、だれでしょね」の「なんなんなつめのはなのした」で泣いている「かわいいみよちゃん」に出合えるかもしれない。

          


 ただし、国民学校の一年生になった折、私はカタカナ(当時は最初にカタカナを学習した)もひらがなも読み書きできた。たぶん九九も知っていたと思う。
 これは、農家の10人兄弟姉妹の中ほどで、自分が学問をしたくてもできず、高等科卒(今の中学2年)であった母が私を特訓してくれたおかげであった。
 しかし、その特訓は怖かった。私が間違えたりすると、母が内職にしていた縫い物などの2尺物指し(60センチ余)が遠慮会釈なくとんできた。

 しかし、私が懸命に字を覚えたのはそれによる恐怖感からではない。当時軍隊にとられ、満州はハルビンにいた父の軍事郵便を読み、それへの返事を書きたかったからでもあった。

 幼児体験に戻ろう。
 もうひとつ私が体験していないのは、いわゆる子ども用の三輪車に乗ったことがないことである。これも戦時中に関連するが、やはり裕福な層に限定されていたのだと思う。
 しかし、その限定されていた三輪車も、やがて「献納」という金属類は全てお上が召し上げるという制度で消えていった。
 この献納では、各家庭での必要最小限の金属以外はすべて召し上げられたばかりか、寺院や神社などの金具や、今なら重文級の梵鐘すら召し上げられ、人々の安明をを祈るべき仏具の鐘や神具が、敵を殺傷する武器へと転じられた。

 といったようなわけで、私は三輪車に乗ったことはない。ついでながら、子供用の自転車にも乗ったことない(そんなものは殆どなかった)。したがって私の自転車体験は、小学校の高学年での、大人用の自転車を用いたいわゆる三角乗りという方法であった。
 どういう方法かは説明が面倒なので図を参照されたい。まあ、いってみればサドルには跨がらない(子どもだからサドルに跨がれない)自転車の乗り方なのである。

          

 なんか話はチャランポランになるが、私の経験はともかく、子どもが最初に自分で乗る乗り物は圧倒的に三輪車が多かったのではないかと思う。
 ところがである、最近、その三輪車も見ないしそれに乗っている子も見る機会が少ないのだ。

 かつては、そこらの路地に溢れていたし、地域の小公園や社寺仏閣の境内などに放置されたそれらがいっぱいあって、母親などが「まあ、うちの子ったらこんなところに放りっぱなしにして・・・」と回収して歩いた風景はきわめて一般的なものだった。
 しかし、今はそれらを見ることがない。



 
 ひとつ考えられることは、現今の交通事情のなかで、三輪車が、どんな路地や田舎道であれ、走ることができなくなっていることである。ということで、三輪車に乗る子どもというのは今では稀有のありようである。

 では三輪車は終わってしまったのかと検索してみたら、もちろんそうではなかった。私が見かけなくった三輪車は図のように「進化」していたのだ。
 背後に取っ手があってそれらを保護者がキープして安全性を確保するものである。
 なるほどと思った。
 と同時に、三輪車というものが子どもがはじめて自力で動かすことができる乗り物ではもはやなくなっているを目の当たりにした。
 これでは、開放型の乳母車にほかならない。

 だから最近、そのへんに三輪車が転がっていることがなくなったのだと納得した。
 私自身はまったく経験がないが、かつて公道で三輪車レースをしていた子どもたちを懐かしく思い出した。
  

 

 

コメント (3)
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