土曜日、県立図書館へ行く。
借りていた本を返すためである。
今は本を読む時期ではない。締め切りを控えて、これまで勉強したものを必至で文章に紡ぎだす時期だ。書かなければならないのだ。

だから、今回新しく借りるのはよそうと思った。
しかし念のため、新刊の箇所へ行ってみたら、ジァン=フランソワ・リオタールの『なぜ哲学するのか?』(松葉祥一:訳 法政大学出版局)が目についた。
手にとってパラパラっとめくってみると、彼が1964年に自分の学生たちにした講義のテキストのようである。
誰もまだ読んでいない書の独特の臭いが鼻孔を刺激する。
すぐにゲットした。
1964年といえば20代なかばの私が迷いに迷っていた時期である。
その同じ時期の若者たちにリオタールが何を説こうとしたのか。
当時の私がこの書に出会っていても、さまざまなドグマで思考の自由を失っていたこともあってなにも読み取れなかったかもしれないと思いつつ、それでも青春のやり直しのつもりで読んでみようと思った。

左は4月16日
さいわい、そんなに長いものでもないので、書きながら平行してでも読めるだろう。うまくゆけば、今書こうとしているものにさらに追加すべきものを与えてくれるかもしれない。
タイトルがいい。普通なら、『哲学とはなにか?』というところなのだろうが、『なぜ哲学するのか?』は、すでにしてそこに私が参加している気がするではないか。


上は6月28日
ついでに、図書館中庭のアメリカハナミズキに挨拶をし、ついで隣の県立美術館南のナンキンハゼの樹ともエールを交わした。
両方共、可愛らしい実をちょこなんとつけていたが、今年は実の付き方がいいように思った。
これらの花の時期を写したものがあったので、比較のために載せておこう。
借りていた本を返すためである。
今は本を読む時期ではない。締め切りを控えて、これまで勉強したものを必至で文章に紡ぎだす時期だ。書かなければならないのだ。

だから、今回新しく借りるのはよそうと思った。
しかし念のため、新刊の箇所へ行ってみたら、ジァン=フランソワ・リオタールの『なぜ哲学するのか?』(松葉祥一:訳 法政大学出版局)が目についた。
手にとってパラパラっとめくってみると、彼が1964年に自分の学生たちにした講義のテキストのようである。
誰もまだ読んでいない書の独特の臭いが鼻孔を刺激する。
すぐにゲットした。
1964年といえば20代なかばの私が迷いに迷っていた時期である。
その同じ時期の若者たちにリオタールが何を説こうとしたのか。
当時の私がこの書に出会っていても、さまざまなドグマで思考の自由を失っていたこともあってなにも読み取れなかったかもしれないと思いつつ、それでも青春のやり直しのつもりで読んでみようと思った。


左は4月16日
さいわい、そんなに長いものでもないので、書きながら平行してでも読めるだろう。うまくゆけば、今書こうとしているものにさらに追加すべきものを与えてくれるかもしれない。
タイトルがいい。普通なら、『哲学とはなにか?』というところなのだろうが、『なぜ哲学するのか?』は、すでにしてそこに私が参加している気がするではないか。




上は6月28日
ついでに、図書館中庭のアメリカハナミズキに挨拶をし、ついで隣の県立美術館南のナンキンハゼの樹ともエールを交わした。
両方共、可愛らしい実をちょこなんとつけていたが、今年は実の付き方がいいように思った。
これらの花の時期を写したものがあったので、比較のために載せておこう。