パソコンで文章を書くことが多くなったとはいえ、ノートをとって書を読んだりするせいもあって結構、手書きもする。
ご承知のように漢字は表意文字なので、書きながらその含意するところにふと注意が行ったりすることがある。
そして、そうであるからこそ、変なところで躓いたりする。
最近、分からないのは、
「暗闇」、あるいは「暗」い「闇」などという場合のこの二つの漢字である。
この二つの文字が、それぞれ
視覚に関わるものであることは間違いない。そして、聴覚には関連しないように思う。
ここまで書けばお分かりのように、問題は、視覚に関する文字であるにも関わらず、なぜ、聴覚に関連する
「音」という文字が使われているかである。
この暗闇が音という聴覚に関連するということから、聖書を連想してしまった。漢字から聖書というのは飛躍しすぎだと思われるが、連想してしまったものは致し方ない。
ただし、私はクリスチャンでもなく、聖書に精通しているわけでもないので、従って、これをもって読む人をキリスト教に誘導しようとかいう下心はまったくない。
逆に、私の身勝手な聖書のつまみ食い(引用と解釈)が、真面目なクリスチャンの方の逆鱗に触れはしまいかと恐れる次第である。
さて、連想とは以下である。
最初は、
『旧約聖書』の冒頭、「創世記」からである。
≪初めに、神が天と地を創造した。
地は形がなく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 神はその光をよしと見られた。そして神はこの光と闇とを区別された。神は、この光を昼と名づけ、この闇を夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。≫
ここでは、光と闇の分離が説かれ、それが天地創造の始源であるかのように語られているが、よく読むとそうではない。その光と闇の分離は、神の「光よ。あれ。」の言葉によって導かれているのだ。従って、その言葉こそが始源なのだ。
それを受けて、
新約聖書、ヨハネ伝、第一章、第一節はいう。
≪はじめに言葉があり,言葉は神と共にあり,言葉は神であった。 この言葉ははじめに神と共にあった。すべての物は言葉を通して造られた。造られた物で,言葉によらずに造られた物はなかった。 言葉の内には命があり,命は人の光であった。 光は闇の中で輝くが,闇はそれを受け入れようとはしなかった。≫
そしてこの言葉は、しばしば、ギリシャ語の
「ロゴス=理性」と等置されたりする。
要するにこの一連の過程を結びつければ、
光と闇に先立って、言葉=音声があり、それこそが光と闇を分離したのである。
さて、以上が連想の根拠(?)である。
要するに、視覚的な光と闇に先立つ聴覚としての音声、それが
光と関連する「日偏」と「音」の結びつきとしての「暗」で暗示され、かつ、「門構え」のうちに「音」を閉じこめることによる「闇」の意味を示しているのではないだろうか。
むろん、以上は夢想ともいうべきこじつけに過ぎない。
だいたい、漢字とキリスト教(もしくはユダヤ教)を無媒介に結びつけるなんて、ナンセンスもいいところだ。
しかし、それにしても、こうにでもこじつけなければ、視覚を現す文字が、聴覚を現す部分によって表示される理由が分からないではないか。
ついでながら、漢和辞典をいじっていて面白い発見をした。
というのは、
「音」という文字、そのもとは「言」という文字のナベブタの下の二本の横棒が立ち、その下の口の中に横棒が入って出来た文字で、もともとは、「言」と同じ意味だったというのだ。
ホラ、やはり
「はじめに言葉ありき」ではないか。
なお、私のこじつけ説とは別途、はじめの光と闇の分離(=分節)が、言葉として始まったこと、そして、その言葉が理性と同一の言葉で語られるのは、
混沌(カオス)に対する言語の介入による世界の開け(コスモスの成立)という、ソシュールの丸山圭三郎的、唯言語論的解釈とも通底していて面白いものがあるが、ややっこしになるのでそれには触れない。
もうひとつ触れれば、この天地創造の問題は、シェリング/ハイデガー関連での
世界と大地の闘争、被隠匿性と隠匿性の問題へとつなげることも出来そうだが、これも力量に余る。
はじめのちょっとした引っかかりが、だんだん妄想に近づいてきたようだ。
ここらで無粋な日記を閉じよう。
忘却の闇へと誘うために・・。