きっと、いいことあるよね!

母(sake)と息子(keke)の日々の記録。
お出かけ写真と料理など。

存在

2016-03-11 | 息子keke
朝、久しぶりにkekeと顔を合わせる。(昨日、仕事がなかったようである。)

たまたま広島の中学3年生のニュースをやっていて、「これはショックだった」と言うと、kekeも同感のようで「自分でも自殺するかも」と言う。

「行きたい高校に行けなくても他の学校でもいいわけだし、何も自殺しなくてもよかったのではないかなぁ。」と私は言うと、kekeは「中学生だからそこまで考えられなかった。これで人生終わったと思ったんだよ。」と言う。

自分もkekeが大学を辞める時に「これでkekeの人生は終わった」と思ってしまった。
それが正しくなくても、やはりその時はそう思ってしまうと思う。

「それではどうすればよかったんだろう。親が学校に行って食い下がればよかったのかな。」と言うと、kekeは黙った。
そして、「交通事故もそうでしょ。」と言う。

悪くなくったってそういうこともあるんだよ、と言う意味だと思う。
私は「そう考えればいいのか。」と言った。

「だけど、これは原因(加害者)があるけどね。」とkekeは部屋に入っていった。


不謹慎かもしれないが私はkekeを「頼もしい」と思った。
割と最近になって、そう思うことが増えた。

これからもしもある理不尽な出来事にぶつかっても、それを振り切ってkekeは淡々と生きていくのではないか。私が死んでも、家や財産がひっくり返ってなくなるようなことが起こってもあの子はそれを乗り越えて生きていくような気がするのである。(それでいいのだ)


会社に行くと、私は水槽を思い出した。

やはり魚が1匹死んでいた。

昨日も死んでいたのは気づいていたが、底に沈んでしまい翌朝になったら浮いてくるかもしれないと思ってそのままにしておいたのだ。
しかし、水草(造花の)に引っかかって浮き上がらないままだった。

(さっきZENさんにとってもらえばよかった)と思ったが、このまま放置するのは魚が可哀想に思い、引き上げる事にした。
(この先の具体的な描写は気分のいいものではないので、ここでは避ける。)

私は魚も人間もおんなじだ、と思った。
不謹慎のきわみだろうか。

死んだら、命がなくなったら「もの」になってしまう。


そして私はまた今日一日を過ごす。

何も無かったように。