「しょぼくれ老人という幸福」/ひろさちやさんの本を読む。
副タイトルは「人生を幸せにする執着の捨て方」だそうである。
終活、お墓をどうする、遺産をどうする、そういうことは全部「私欲」だそうである。ボケたくない、ピンピンコロリしかり。
そんなことをしたってなる時はなる。自然にそれ姿を受け入れましょう、ということから始まる。
そもそも長生きすればいつかはボケる。
長生きしたいしボケたくもないの両方は虫が良すぎる。それより「ボケてごめんね」と思って、今から子孫に感謝して大切にしましょう、と書いてある。
金銭欲もまたしかり。
老後のために貯金も金銭欲なのだそうである。
私はこれを読んで「今までどれだけ欲があったのだろう」と思う。
kekeを大学に入れるため!と金を貯めこんだこともあったっけ。当時はkekeのためだと思っていたけれど、そうしたい自分の欲だったのだった。
今そういうものがなくなって、少しだけお金にも余裕(?)が出てきて分かった。
大学なんて出なくてもいいし、定職につけなければそれもいい。(そりゃついた方が安心するけど。)
生活できなければ、生活保護を受けてもいいし、それが叶わなければ死んでもいい。
全て本人の自由だったんだ。
それをー「死んじゃだめ」「定職に付かなきゃだめ」「それには大学を出なければだめ」とダメダメダメと繰り返した自分。
あの子は死ぬ覚悟はできている。
それが誰かの迷惑になるなら、いけなければ死んでもいいと思ってる。
ひろさちやさんの本によると「その時が寿命」ということなのだろう。
だとしたら、もう誰も何も言う権利はないのだ。
あぁ、なんて空は広いのだろう。(今日は雨なのであくまで比喩です。)
ちなみにこの本には「正しいことを押しつけないこと」とも書いてある。
それは「正義という名の魔類」で仏教では「阿修羅」と言うそうである。(ちなみに、ひろさちやさんはお坊さんです。)
「他者を裁いたところで、何の意味をありません。せいぜい、自分が優位に立ったような気持になるだけで、自分の傲慢さを助長しているようなものです。」(原文とおり)
このくだりを読んであの(ワイドショーなど)で間違いだとされる人間をを一斉たたく正義の合唱は「阿修羅」だったのかとホッとした。驕りになるかもしれないが、あれを傲慢だと思った自分の感性はあながち間違いではなかったのだなぁ。(と思うことにする。)
「(裁判所は必要だが)わたしたち個人が、他者がとった行動に対して「わたしであればそんなことはしないのに」とばかりに、その行為を愚かでまちがえたことだと決めつけたり、そんな行為をする必要はなかったのに、などと非難することは意味があることではありません。」(原文とおり)
お坊さんがそう言うのだから、たぶんそれでいいのだ。
20代はきれいな盛りで、今がピークと思っていた。
30代は子育て真っ盛りで今が人生のピークと思ってた。
40代は少しわがままが減って今が悟りのピークだと思ってた。
でも、やっぱり今までの中では50代の今がピークだと思う。
もう20代のようにきれいでもないし、30代のように体力もない。
でも、今までのいつよりも、自分で考えて判断することができるようになった。
時に間違いもあるけれど、それをもう一度考え直す余裕もできた。
60代はどうだろう。
たぶん(周りの方を見ると)もっとレベルアップしてもっと人生が楽しくなりそうだ。
その時がこの先来るとしたら、だがなぁ。。。
今なら思う。
若くてきれいな女ばかり追い掛け回す男ども。
あいつら、単にガキなんだ。
ちなみに私はまだ仏様でも坊さんでもない凡人なので、老後の事も考えてお金も少しはためるし、ボケないようにしがみついて努力しようと思う。
副タイトルは「人生を幸せにする執着の捨て方」だそうである。
終活、お墓をどうする、遺産をどうする、そういうことは全部「私欲」だそうである。ボケたくない、ピンピンコロリしかり。
そんなことをしたってなる時はなる。自然にそれ姿を受け入れましょう、ということから始まる。
そもそも長生きすればいつかはボケる。
長生きしたいしボケたくもないの両方は虫が良すぎる。それより「ボケてごめんね」と思って、今から子孫に感謝して大切にしましょう、と書いてある。
金銭欲もまたしかり。
老後のために貯金も金銭欲なのだそうである。
私はこれを読んで「今までどれだけ欲があったのだろう」と思う。
kekeを大学に入れるため!と金を貯めこんだこともあったっけ。当時はkekeのためだと思っていたけれど、そうしたい自分の欲だったのだった。
今そういうものがなくなって、少しだけお金にも余裕(?)が出てきて分かった。
大学なんて出なくてもいいし、定職につけなければそれもいい。(そりゃついた方が安心するけど。)
生活できなければ、生活保護を受けてもいいし、それが叶わなければ死んでもいい。
全て本人の自由だったんだ。
それをー「死んじゃだめ」「定職に付かなきゃだめ」「それには大学を出なければだめ」とダメダメダメと繰り返した自分。
あの子は死ぬ覚悟はできている。
それが誰かの迷惑になるなら、いけなければ死んでもいいと思ってる。
ひろさちやさんの本によると「その時が寿命」ということなのだろう。
だとしたら、もう誰も何も言う権利はないのだ。
あぁ、なんて空は広いのだろう。(今日は雨なのであくまで比喩です。)
ちなみにこの本には「正しいことを押しつけないこと」とも書いてある。
それは「正義という名の魔類」で仏教では「阿修羅」と言うそうである。(ちなみに、ひろさちやさんはお坊さんです。)
「他者を裁いたところで、何の意味をありません。せいぜい、自分が優位に立ったような気持になるだけで、自分の傲慢さを助長しているようなものです。」(原文とおり)
このくだりを読んであの(ワイドショーなど)で間違いだとされる人間をを一斉たたく正義の合唱は「阿修羅」だったのかとホッとした。驕りになるかもしれないが、あれを傲慢だと思った自分の感性はあながち間違いではなかったのだなぁ。(と思うことにする。)
「(裁判所は必要だが)わたしたち個人が、他者がとった行動に対して「わたしであればそんなことはしないのに」とばかりに、その行為を愚かでまちがえたことだと決めつけたり、そんな行為をする必要はなかったのに、などと非難することは意味があることではありません。」(原文とおり)
お坊さんがそう言うのだから、たぶんそれでいいのだ。
20代はきれいな盛りで、今がピークと思っていた。
30代は子育て真っ盛りで今が人生のピークと思ってた。
40代は少しわがままが減って今が悟りのピークだと思ってた。
でも、やっぱり今までの中では50代の今がピークだと思う。
もう20代のようにきれいでもないし、30代のように体力もない。
でも、今までのいつよりも、自分で考えて判断することができるようになった。
時に間違いもあるけれど、それをもう一度考え直す余裕もできた。
60代はどうだろう。
たぶん(周りの方を見ると)もっとレベルアップしてもっと人生が楽しくなりそうだ。
その時がこの先来るとしたら、だがなぁ。。。
今なら思う。
若くてきれいな女ばかり追い掛け回す男ども。
あいつら、単にガキなんだ。
ちなみに私はまだ仏様でも坊さんでもない凡人なので、老後の事も考えてお金も少しはためるし、ボケないようにしがみついて努力しようと思う。