西川與助という人がいた。小牧の戦いで大活躍し秀吉から感状を貰っている。 忠興は百石を加増している。綿考輯録に詳しい。今、熊本市立博物館で催されている、「刀剣・その美と肥後の歴史との関わり」展に、この時秀吉から拝領した刀が展示されていると言う。名誉の人西川與助は後、寛文九(1669)年十月陽明学を修めたという理由で追放された。いわゆる陽明学徒追放事件である。記録によると、妙解院(忠利)五十回忌にあたる元禄三(1690)年勘気がとけ、倅弥右衛門が再び召し出されている。與助は豊前で死んだとも伝えられている(先祖附未見)。ちなみに家老を務めた沢村大学は、與助の足軽であった。
今日の熊本日日新聞の「新生面」は、小牧の戦いから三百年後、西川家十代正範がこの刀を携えて「神風連の乱」に加担二十四歳で亡くなった事を紹介している。武辺の家である。敬意をもって展観しなければならない。
今日の熊本日日新聞の「新生面」は、小牧の戦いから三百年後、西川家十代正範がこの刀を携えて「神風連の乱」に加担二十四歳で亡くなった事を紹介している。武辺の家である。敬意をもって展観しなければならない。