津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

興秋係累の憂鬱

2006-03-12 12:00:13 | 歴史
 元和二年(1616)父忠興の命により興秋は自裁する。33歳。錩(なべ)という一人の女子があった。判官贔屓で、その行く末が気になって仕方がない。生母氏家元政女は、興秋自裁後飛鳥井中納言持信に再嫁している。錩は南條元信に嫁す(後妻)こととなるが、生母の再嫁はその後のことであろう。これら一連の興秋遺族の行く末には、忠利も大いなる関心を払ったと考えられる。興秋自裁の大元を辿ると、興秋の忠利に替わっての証人問題が発端となっているからだ。

 忠利の死の一ト月前寛永十八年(1641)二月、末子勝千代が生まれた。生母は不詳と家記は記す。次の藩主となった光尚は、三歳になった勝千代を南條元信・錩夫妻の許に養子に出す。錩にとって勝千代の養育は生きがいであったろう。長じて元信の女・伊千(米田是長室)の女吟と結婚、長岡の姓を賜り、長岡元知と名乗り家老職(5000石)となった。

 寛文九年(1969)、陽明学を研鑚学習してきた藩士十九人が、追放される事件が起きた。幕府が陽明学を「異学」としたためである。時の藩主は綱利、長岡元知にとっては甥に当たる。綱利の処分に対して譴諫し永蟄居を申し付けられた。元知29歳、綱利27歳であった。元禄十年(1697)綱利から頭巾が贈られた。これをもって処分が解かれたとされている。元知の正義心が、その生涯をあたら棒に振ってしまった。三十数年の閉居は異常に思える。綱利にとっても、興秋遺族は扱いにくい存在だったのかも知れない。

 米田(長岡)是長には継嗣がなかった。長岡元知・吟の嫡子是庸が米田家を相続することが、藩庁より申し渡される。是庸の将来を慮ってのことかも知れない。

 話は遡る。南條元信についてである。家督を元知に譲った後、奇異な振る舞いが、数多く見られるようになったと伝えられている。切支丹の疑いも掛けられ、元知が蟄居を申し付けられた寛永九年、長崎奉行所に召還されている。嫌疑は晴れたが再び肥後に還され、竹之丸質屋(牢)に入れられた。

 錩の心情を考えると誠に憐れである。父は自裁し、母とは別離させられた。養嗣子元知は不遇な生涯を強いられ、夫たる南條元信は晩節を汚した。孫・是庸が米田家を相続することにより、名門南條家は絶家することと成る。錩は没後、米田家菩提寺見性寺に葬られ、名家米田一族の人々と共にある。もって瞑すべし・・・・・

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