細川忠興・忠利が入魂であった旗本である。播磨屋さんの「武家家伝」にも登場する。綿考輯録にも度々その名を見ることが出来るし、著作においても山本博文著「江戸の宮廷政治」や、戸田敏夫著「細川家資料による・天草島原の乱」などで確認できる。長崎奉行や大坂町奉行などを勤めているが、細川家にとっては、いろいろ情報をもたらせてくれる大切な人脈であったようだ。その娘は忠興の養女となり、松下民部少輔の子・河方安右衛門に嫁いでいる。松下民部については、幽斎の田辺城籠城にあたって禁裏への使いを果たしたとも伝えられているが、綿考輯録は「いぶかし」としている。
ある方のご先祖様を遡っていたら、河方安右衛門の弟を養嗣子としておられた。その結果として曽我丹波守に行き着いた。インターネットで検索したら、東大阪市の「孔舎衙小学校」のHPに誘われた。生駒山の麓、日下町にある小学校で「蛍の生態」をべんきょうしているらしい。「孔舎衙」は「くさか」と読む。わがBBSに書き込みをいただく、「ちゃちゃ」さんは、日下部氏の研究を懸命にやっておられるが、奇遇な「くさか」訪問となった。日下町には曽我丹波守を祀る「丹波神社」がある。善政の人であったらしい。
ある方のご先祖様を遡っていたら、河方安右衛門の弟を養嗣子としておられた。その結果として曽我丹波守に行き着いた。インターネットで検索したら、東大阪市の「孔舎衙小学校」のHPに誘われた。生駒山の麓、日下町にある小学校で「蛍の生態」をべんきょうしているらしい。「孔舎衙」は「くさか」と読む。わがBBSに書き込みをいただく、「ちゃちゃ」さんは、日下部氏の研究を懸命にやっておられるが、奇遇な「くさか」訪問となった。日下町には曽我丹波守を祀る「丹波神社」がある。善政の人であったらしい。