柳営秘巻に有之 細川家御大変の節(細川光尚死去後の、六丸相続の事) 御家督の時分其日殿様御同道にて 上意に御知行御相違の仰出され有之候由 然るに細川越中守遺跡相違無五拾四万石下され置き有り難き仕合せに存じ奉り候旨 高らかに洪済院様(小笠原忠基)御受有之故其分にて済みける由此時分は細川家御改易にも仰付らるべきやの説有之由 洪済院様御老中の御前にて越中守跡式之儀に付ては是非なく冑を裁候 時節到来仕候と御咄成され候由 ケ様之事彼是にて御力量の御取計いなり 以下略
或る人の咄に当国(豊前国)御城細川三斎公御築き成され 初めは今の西ノ口大平にて有し 西の方郭も重々掛り 米蔵御土蔵も東の方にて内証の方なり 鉄御門脇の中ジヤリも鉄御門の方に戸開くなり 然るを福聚院様(小笠原忠真)御打入遊ばされ今の大手に替りし 何か少々様子も替りし由 又一説に三斎公始めは西の口を大手と定められしを 後に今の通りに大手と成しとも云ふ 今の大手は杉の御門と云し由 杉の木材木にて粗末の由 扉の柱など包み柱の由 又上の櫓を今は杉の櫓と云うなり実否未知
仲津口(ママ)御門の横の石垣に弐枚畳程の大石築有之 此石大谷より御取寄せに成る節一向動き申さず処 細川三斎公御馬にて乗付給ひ御憤りにて綱先の人歩一人御手討に遊され候処 飛ぶ如く中津口迄曳寄せ候由人の咄すことなり 此咄諦観院様(小笠原忠総)え申上候処 御笑ひ遊ばされ身共ならば其石二つに割りて取寄せるべきに 左ならば人命を取らずして成るべきにと御意遊され候由 恐れ乍ら御するどき御事なり 石の大小にて勝負に拘らぬと云ふ処御会得遊ばれしと察し奉る(現在小倉区三本松稲荷神社境内に中津口御門の大石あり)
仲津口(ママ)御門の横の石垣に弐枚畳程の大石築有之 此石大谷より御取寄せに成る節一向動き申さず処 細川三斎公御馬にて乗付給ひ御憤りにて綱先の人歩一人御手討に遊され候処 飛ぶ如く中津口迄曳寄せ候由人の咄すことなり 此咄諦観院様(小笠原忠総)え申上候処 御笑ひ遊ばされ身共ならば其石二つに割りて取寄せるべきに 左ならば人命を取らずして成るべきにと御意遊され候由 恐れ乍ら御するどき御事なり 石の大小にて勝負に拘らぬと云ふ処御会得遊ばれしと察し奉る(現在小倉区三本松稲荷神社境内に中津口御門の大石あり)
細川三斎公は御器量格別の御方と見ゆ 或年凶年なりしに御家に名高き御茶器を御小姓両人に持せ大阪に登らせ 御町奉行えも其段断り大金に売払い 其金子を以て米穀を夥しく買入れ 船にて小倉え廻し貧民に悉く与へ給ひし由 此評判江戸に満々 其頃肥後熊本加藤忠広殿御改易故 最早外に熊本え御所替の御大名此上有間じくとて細川候え拝領し給ひしと也 ケ様の事に御替成され候こそ宝物の威徳の顕れ珍重なれ 箱入にて土用干のみにては何の威徳が顕れず 賢君は亦格別の御事なりと
(鵜の真似 小倉藩士小島礼重の著作、文化四年から嘉永三年頃までの、小倉の旧事や諸国の風聞をまとめたもの。細川家に関する記述が多く見られる)
(鵜の真似 小倉藩士小島礼重の著作、文化四年から嘉永三年頃までの、小倉の旧事や諸国の風聞をまとめたもの。細川家に関する記述が多く見られる)