神風連志士の中に、二十四歳で自害して果てた西川正範という人がいる。十六歳の時に父・十郎右衛門は不慮の事故で死亡した。藩主の弟・津軽氏応援の為の派兵に参加し、千葉川津沖にて乗艦ハーマン号が沈没して藩士その他が百数十名が死亡した。肥後藩國事資料(巻九)は、小者壹人と共に十郎右衛門「生死未相分」と記している。明治二年正月三日のことである。
家祖西川与助(十郎右衛門)は、丹後で七百石を拝領した細川家根本家臣の一人である。故あって御暇、金吾中納言に勤仕したが帰参・千石、御鉄砲頭を勤めた。
小牧の戦に活躍し秀吉より感状を賜る(一番首)
去朔日、小牧表人数打入刻、家康於相慕者逐一
戦可討果処、敵依備不崩無是非候、少々足軽共
取出候処、抽諸卒、秀吉於眼前手柄之高名無比
類候、因茲為褒美熨斗附刀脇差遺訖、弥向後可
被相励者也、恐々謹言
五月十一日 秀吉
長岡越中守殿手
西川与助殿
豊前に於いては御物奉行(五百石)等を勤めた。(於豊前小倉御侍帳)
同名与助なる人がやはり、御物奉行衆・五百石(肥後御入国宿割帳)、御鉄炮頭衆・五百石(真源院様御代御侍名附)等で確認されるが、寛文九年十月十二日陽明学徒の故を以って追放された。元禄三年妙解院様五十年御忌にあたり「倅弥右衛門御勘気被成御免、五人扶持廿石被下之」御中小姓与に召加えられた。
西川正範は神風連の挙に際し、家祖与助が秀吉から拝領した刀を以って立ち働いたが、その刀は官軍の手に落ちのち商人の手になった。その後この刀を手に入れた人が、悉く「故障」したという。のちその話しを伝え聞いた西川家がもしやと思い調べたら、まさしく家祖与助の刀である事が分かり、買い戻したとされる。
文武に長じた名誉の家である。
家祖西川与助(十郎右衛門)は、丹後で七百石を拝領した細川家根本家臣の一人である。故あって御暇、金吾中納言に勤仕したが帰参・千石、御鉄砲頭を勤めた。
小牧の戦に活躍し秀吉より感状を賜る(一番首)
去朔日、小牧表人数打入刻、家康於相慕者逐一
戦可討果処、敵依備不崩無是非候、少々足軽共
取出候処、抽諸卒、秀吉於眼前手柄之高名無比
類候、因茲為褒美熨斗附刀脇差遺訖、弥向後可
被相励者也、恐々謹言
五月十一日 秀吉
長岡越中守殿手
西川与助殿
豊前に於いては御物奉行(五百石)等を勤めた。(於豊前小倉御侍帳)
同名与助なる人がやはり、御物奉行衆・五百石(肥後御入国宿割帳)、御鉄炮頭衆・五百石(真源院様御代御侍名附)等で確認されるが、寛文九年十月十二日陽明学徒の故を以って追放された。元禄三年妙解院様五十年御忌にあたり「倅弥右衛門御勘気被成御免、五人扶持廿石被下之」御中小姓与に召加えられた。
西川正範は神風連の挙に際し、家祖与助が秀吉から拝領した刀を以って立ち働いたが、その刀は官軍の手に落ちのち商人の手になった。その後この刀を手に入れた人が、悉く「故障」したという。のちその話しを伝え聞いた西川家がもしやと思い調べたら、まさしく家祖与助の刀である事が分かり、買い戻したとされる。
文武に長じた名誉の家である。