町源右衛門という人がいる。父親は吉良左京進、長曽我部元親ノ弟吉良親貞ノ子・親実である。元和二年、江戸に於いて忠興に召し出され三百石、のち加増百石。江戸留守居役
を勤めている。「寛永十三年十月二日光尚室禰々男子出生、後十月十四日禰々死去、産後の状況が伝えられなかったとして忠興激怒、中屋敷留守居役源右衛門ほか扶持召放となる。これは忠興に心配させぬ様にとの光尚の配慮があり口止めがあったといわれる。光尚の死により源右衛門代の召出は叶わなかった。後致仕し堀田正盛に仕えた」
嫡男三右衛門は細川家に残った。「江戸江相詰衆 四百石」(於豊前小倉御侍帳)
次は源右衛門・二男市之允が継いでいる。
次のような文書が登場すると、私はパニック状態になってしまっている。
忠利から長岡佐渡守に宛てた書状だが、何時の頃のものかよく分からない。
九月四日之状披見候然者町源右衛門養子ニ町孫平次を仕度之旨
其方迄申越候通得其意候此段最(旧字)前も承候キ源右衛門存
分之通無余儀候間孫平次儀可遣候其通其方より源右衛門かたへ
申遣返事次第孫平次爰元へ可指下候尤孫平次ハ當所務遣候間其
通を茂可被申渡候委者左兵衛方より可申候謹言
この孫平次なる人は何者で、何処へ行ってしまったのだろうと考えると、「夜も寝られない」
を勤めている。「寛永十三年十月二日光尚室禰々男子出生、後十月十四日禰々死去、産後の状況が伝えられなかったとして忠興激怒、中屋敷留守居役源右衛門ほか扶持召放となる。これは忠興に心配させぬ様にとの光尚の配慮があり口止めがあったといわれる。光尚の死により源右衛門代の召出は叶わなかった。後致仕し堀田正盛に仕えた」
嫡男三右衛門は細川家に残った。「江戸江相詰衆 四百石」(於豊前小倉御侍帳)
次は源右衛門・二男市之允が継いでいる。
次のような文書が登場すると、私はパニック状態になってしまっている。
忠利から長岡佐渡守に宛てた書状だが、何時の頃のものかよく分からない。
九月四日之状披見候然者町源右衛門養子ニ町孫平次を仕度之旨
其方迄申越候通得其意候此段最(旧字)前も承候キ源右衛門存
分之通無余儀候間孫平次儀可遣候其通其方より源右衛門かたへ
申遣返事次第孫平次爰元へ可指下候尤孫平次ハ當所務遣候間其
通を茂可被申渡候委者左兵衛方より可申候謹言
この孫平次なる人は何者で、何処へ行ってしまったのだろうと考えると、「夜も寝られない」